川本梅花 フットボールタクティクス

無料記事【サッカー映画批評】少年は未来に何を見るのか? 絶望かそれとも・・・【イタリア映画】「ある日突然に」”Un giorno all’improvviso”

【イタリア映画】「ある日突然に」”Un giorno all’improvviso”

映画

「ある日突然に」

原題:Un giorno all’improvviso
監督:チーロ・デミリオ
出演:アンナ・フォッリエッタ、ジャンピエロ・デ・コンチリオ、マッシモ・デ・マッテオ
91分/2018年/イタリア/

プロット

17歳のアントニオは、南イタリアの小さな村で母親と2人暮らしをしている。アントニオの父親に捨てられて、精神的に病んでしまった母親は、アルコールに頼って現実逃避しようとする。母親を支えるためにアルバイトをしながら、プロのサッカー選手を目指して練習に励んでいるアントニオの前に、ある日、スカウトが訪ねてきてテスト入団のチャンスが到来するのだが・・・。

公開記録

1986年生まれのデミリオ監督のデビュー作は、ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門に選ばれる。日本での最初の公開は、2019年に東京と大阪で 開催された「イタリア映画祭2019」であった。さらに、「ヨコハマ・フットボール映画祭2023」の中でも公開される。

映画を批評するとは描かれていない部分を語ることである

映画を批評するとは何であるのかと考えた時に、上演される映画の中で描かれていないシーンを語ることが、映画を批評することになるのではないのかと漠然と思っていた頃があった。そうした立場は映画を見る観客にも当てはまることである。たとえば、ラストシーンで未来について何も描かれていない場合、その先にある物語を語ったり考えたりすることはダイナミックな営為である。またさらに、観客に監督が描かなかったことを想像させることができれば、その映画がその人にとって十分に価値があったことにも繋がっていく。描かれていない物語を想像して言葉で語れるところまで推し進める。そうした批評や鑑賞があったら、もっと映画の面白さにハマってしまうのだろう。

今回取り上げる「ある日突然に」は、ラストシーンにあっても少年の未来が全く描かれていない。献身的な少年の姿は、観る者の心に痛いほど突き刺さる。母親への愛情が深かったとしても、物語は悲劇的なラストシーンでフェイドアウトする。だから、少年はこれからどうするのかを観客に十分に考えさせる作りになっている。少年が見た未来は希望なのか絶望なのか。そうした観点からすれば、この映画は見るべき価値がある作品だと言えるのである。

寺山修司作品と田舎の因習

「ある日突然に」を観た僕は、寺山修司の『懐かしの我が家』のセリフの一部を思い出し、子どもの頃から感じていた故郷の因習が蘇ってきた。僕は青森県出身で寺山とは同郷になり、自分が生まれ育った場所の居心地が悪かった。それは田舎の風景や自然がいいとか悪いとか言うのではなく、そこで生活する人間が抱える因習が不快で、早くこの町から出て行きたいと望んでいた。寺山の映画の中に「田園に死す」というタイトルの作品があって、そこには青森県が抱える因習が描かれていた。ある女性に子どもが産まれて、周りの人々は「なんてかわいい子なんだ」と喜ぶシーンが映し出される。次のシーンでは、その子どもが死体となって川に流されていく場面が描かれる。表では「喜んで」裏では「誰の子どもかわからない」と毒づく。表の発言と裏での発言がまったく違う。そして、うまくいっている人の足をすぐに引っ張る。

とにかく因習に縛られて生きる人間たちの人に対する関わり方が好きではなかった。田舎の町を出て別な場所に行けば、それまでとは違った世界があるはずだ、そう思って東京に来たのだけれども、僕の頭の中で描いた世界は結局どこにもなった。どこに行っても、人間の本質は変わらないものだと思い知らされた。僕が上京して来た時には、もうすでに寺山はこの世にはいなかった。だが、最初に彼の作品を観た映画「田園に死す」に描かれた「因習」にはとても共感した。

寺山の『懐かしの我が家』のセリフの最後の部分。

「昭和十年十二月十日に 僕は不完全な死体として生まれ

何十年かかって 完全な死体となるのである

そのときが来たら ぼくは思い当たるだろう

青森県浦町字橋本の 小さな日当たりのいい家の庭で

外に向かって育ちすぎた桜の木が 内部から成長をはじめるときが来たことを

子供の頃、ぼくは 汽車の口真似が上手かった

ぼくは 世界の涯てが 自分自身の夢の中にしかないことを 知っていたのだ

この文章の太字で記した最後の文句が、まさにあの当時僕が東京に出てきて感じたことだった。「ある日突然に」で表現されている芯の部分は、寺山の文章に凝縮されていると言っても過言ではない。世界の涯が少年アントニオの夢の中にしかないことを彼は知っている。世界の涯に母親を連れて、今ある現実世界から抜け出したい。その抜け出すための手段がアントニオにとってはサッカーだった。サッカーしか頼るべきものはなく、プロになるという夢を実現することでしか世界の涯には届かない。アントニオにチャンスが訪れたその日に、母親は絶望から抜け出せずある行動をとってしまう。あまりにも悲しいラストシーンだから、この映画を見た人はきっと、少年の未来が少しでも夢を叶えられる状況であってほしいと願うだろう。

映画を鑑賞する際に作品の中で「何が描かれていないのか」を見れば、監督のメッセージが理解できる。「描かれているもの」は映画を見れば誰でも理解できるのだが、「何が描かれていないのか」を観察することで、映画の真髄を味わうことができる。

この映画のもう一つのテーマでもある「ヤングケアラー」の問題は、語るには重すぎるテーマである。「ヤングケアラー」とは、本来大人がすると想定されているような家事や家族の世話など、金銭面も含めてのケアを 日常的に行っている18歳未満の若者のことを指す。主人公のアントニオは、まさに「ヤングケアラー」であるのだが、母親にとっては時に憎しみの存在になってしまう。この映画には「救い」があるのかどうかいうのは、観る者の現在の生活環境によって左右されると言っても過言ではない。パーキンソン病の母親と同居する僕にとっては、映画の中で描かれていない「未来」に救いがあって欲しいと願うしかない。

川本梅花

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