【無料公開】書評家つじーの「サッカーファンのための読書案内」第12回 中原一歩著『小山田圭吾 炎上の「嘘」』
宇都宮徹壱ウェブマガジン読者の皆様、こんにちは! つじーです。『書評家つじーの「サッカーファンのための読書案内」』第12回になります。この連載もついに1年です。読んでいただき本当にありがとうございます。
今回のテーマは「炎上」です。誰もがSNSを手軽に扱う現代社会では、炎上は付きものといっても過言ではなくなりました。サッカー界も例外ではありません。
あの炎上を覚えていますか?
炎上。それは真っ黒な花火のようだ。
ぱっと打ち上げられ燃え上がり、すぐ忘却の彼方へ消えていく。燃えた当人たちに残されるのは前途のわからない真っ黒な闇だけ。真っ黒な花火なんて存在しないが、炎上という現象は、見ていて花火と闇がセットで訪れたような感覚になる。
本書では、2021年の東京五輪開会式で音楽担当だったミュージシャンの小山田圭吾が、過去のインタビュー記事をきっかけに炎上。担当辞退に追い込まれた出来事を細かな取材にもとづき再検証したものだ。
問題になったインタビューは、1994~1995年に『ロッキング・オン・ジャパン』や『クイック・ジャパン』で掲載された。これらで小山田は学生時代に行った極めて悪質ないじめを半ば笑いながら語っている。
この内容がおよそ30年の時を経て、ネット上で大問題になった。マスメディアやSNSでは批判の嵐、小山田やその周辺には誹謗中傷が相次いだ。
著者の素晴らしい取材力と構成により、本書は炎上に関して、さまざまな切り口を提示してくれている。この書評では、2つの「断絶」を生じさせるという視点から、炎上について考えていきたい。
炎上がもたらす2つの「断絶」
まずひとつ目は「文脈」との断絶である。
インタビューの内容が本当に事実ならば、小山田は越えてはいけないラインを越えた人間であると言われても仕方がない。しかし彼は声明文にて「事実と異なる内容」も多くあると記している。
ならば何が事実で、何が事実でないのか。なぜ事実でない内容が、インタビュー記事として記載されているのか。
過去にさかのぼってこれらを検証しないと、仮に彼に罪があったとしても、どんな罪でどれだけ断罪されるものか分からない。
インタビュー記事ということは、受ける側である小山田だけではなく、インタビュアーや編集側にも焦点を当てる必要がある。
さらにインタビュー当時と現代では、時代背景も価値観も異なる。時代が変わろうと、いじめは罪である。だとしても、当時の時代性を無視して検証はできない。
しかし今回の炎上では、それらが顧みられることはなかった。何もかも小山田個人の過ちとして、無数の人々に断罪され、彼は火柱となっていった。
炎上の大きな特徴は「点の切り取り」だと僕は考える。その背景や周辺人物といった文脈は、いっさい切断されるのだ。
「小山田圭吾が悪質ないじめをして、それを嬉々として語った」という、点だけが真実として切り取られ拡散され、炎上していく。それらを切断せず、ひとつひとつ検証しようとしたのが本書であることは言うまでもない。
もうひとつは「外界」との断絶である。
本書には、炎上した小山田がどのような状態に陥っていったかが、詳しく書かれている。
僕の考えでは、彼の状態は認知のゆがみが極まったものである。正常な判断はできそうもない。それでいて、自分が考えたことは、そのままそうだと思い込んでしまう。
彼をそこまでさせたのは、SNSでの度が過ぎる非難、事務所や自宅への直接的な誹謗中傷や脅迫であるのは間違いない。
この書評を読んでいる方に、小山田の炎上当時のことを思い出してほしい。SNSで小山田を大きく非難したり、事務所や自宅に電話をかけたりメールを送ったりはしただろうか。僕はまったくした記憶がない。
そうなのだ。炎上の外には、サイレントマジョリティにあたる人々が存在する。彼・彼女らは思っていても、分別を持って言わなかったり、そもそも関心がない。
だが、そういったマジョリティの存在が、炎上をなかったものにする。声が大きい人々の声が倍音のように聞こえ、世界の多くを占めているように思えてしまう。それだけ誹謗中傷というのは、脳と心を蝕んでいくのだ。
小山田も、誰が自分を非難しているのか、誰が味方でいるのかわからなくなったのではないだろうか。こっそり出かけても、すれ違う人々がみんな疑わしく見えたに違いない。
この時点で彼が本当の「外界」とは切断され、彼が考える「自分をあらゆる敵が取り囲んでいる状況」を外界と認識するまで追い込まれている。この状態で正常な判断を下すことを求めるのは、あまりにも酷だ。
聞こえない問題提起と、響きわたる誹謗中傷
僕が、炎上という現象が危険だと思う大きな理由が「誰も反省できないこと」である。
SNSへの書き込みや誹謗中傷などで、炎上を巻き起こす側の多くは、先ほど書いたように「点」を切り取って対象が燃えるに値すると判断している。
仮に「線」で判断したら、その対象に罪がないとしても、彼・彼女らにとっては「点」が真実だ。そこに線があることに気がつかない。
最悪なのは、そうやって気がつかないまま忘れていくところだ。忘れたところで、また次の切り取りがいのある「点」に飛びつき炎上に加担する。そこに自分の判断や思考への反省をうながすことは困難だ。
反対に、炎上した側のことを考えてみる。仮に、本当に批判される理由がある行為をしていた場合だ。炎上側はその行為を反省できるだろうか。
かなり難しいのではないかと、僕は思っている。なぜなら反省の前に「攻撃への防御または反撃」を優先せざる得なくなるからだ。
誹謗中傷や脅迫を受け続けることは、自分の身の危険に直結する。そうなったとき、仮に適切な批判が中にはあったとして、それを誹謗中傷と区別して受け止める、正常な判断は可能なのだろうか。
炎上した側が認知が極端にゆがみ、正常な判断が難しくなるのは、本書に書かれた小山田の姿でわかるはずだ。
今年、日本のサッカー界で「炎上した」といえば、FC町田ゼルビアの名前を挙げざるを得ない。
町田のピッチ内外での振る舞いについて、SNSを中心に批判、非難が殺到し燃え上がった。この炎上がエスカレートした結果、町田は誹謗中傷への法的措置を行うことをリリースすることになる。
ここで、町田の振る舞いの是非を問うことはしない。だが仮に、町田の振る舞いに関して、本当に批判に値する面があったとしよう。
その場合、今の状況で町田にそれを是正をしてもらうことが、果たしてできるのだろうかと考えてしまう。
誹謗中傷に取り囲まれた町田側に、理にかなった批判と、そうでないものを切り分けることが可能なのか。迫りくる言葉の刃は、すべて敵に見えないだろうか。誹謗中傷とは、それだけ人間の認知をおかしくする。
適切な意見や批判が炎上に埋もれてしまう。それどころか、認知がゆがんだ相手側からは、誹謗中傷のひとつだと誤認される。どちらのためにもならない、悲劇を引き起こしかねないのが炎上ではないか。
もちろん本当に批判され、是正されてしかるべきものもある。炎上が問題提起になり、世界がより良い方向に向くこともあるだろう。だが多くの炎上は、問題提起の域を超えてしまっている。
どんなに「問題提起だ」「適切な批判だ」と言ったとしても、激しく燃え上がった火柱に、その声が届く可能性は極めて低いのである。
【本書のリンク】
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163918778
【次に読むならこの一冊】小川哲『君のクイズ』
書評では炎上の「罪」に焦点を当てたが、この小説では炎上をある意味「手玉」にとった人物が登場する。一概にこの見解が正義だと決めつけられないのが、炎上というモンスターなのだと思う。
https://publications.asahi.com/product/23804.html
【プロフィール】つじー
サッカーが好きすぎる書評家。北海道コンサドーレ札幌とアダナ・デミルスポルを応援している。自身のnoteに読書やサッカーの歴史の話題などを書いている。ラジオ好きで自らポッドキャストも配信している。
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