ドラガン・ストイコビッチに人生を変えられた男の物語 小柳津千早(セルビア語通訳・コーディネーター)<2/3>
■名古屋時代のピクシーにハマり、大学ではセルビア語を学ぶ
──小柳津さんは1979年の8月生まれ。ということは、ピクシーが1994年に来日した時は、ちょうど中学生だったと思うのですが。
小柳津 そうです。愛知県の豊橋出身だったので、ずっとグランパスを応援していました。94年といえば、アメリカでのワールドカップにカズのセリエA挑戦と、サッカーの話題に事欠かなかったじゃないですか。そんなさなかに、当時のユーゴスラビアからやって来たのがピクシーだったんですよね。
──ユーゴスラビアという国を意識する、きっかけとなったのがピクシーだったと。
小柳津 おっしゃるとおりです。ピクシーが来日した時、確か会見で「自分のことはドラゴンと呼んでほしい」みたいなことを言っていたんですよ。名前がドラガンで、名古屋といえばドラゴンズですから、彼なりに考えてアピールしたんだと思います(笑)。でも僕は、最初から「ストイコビッチ」という名前を覚えました。
──ストイコビッチが10番を付けて「ピクシー」と呼ばれるようになったのって、アーセン・ベンゲルが名古屋の監督になった95年からですよね?
小柳津 そうです、そうです! 当時のJリーグはスタメンの背番号が1から11を付けていた時代で、リネカーが10番でピクシーは8番とか7番が多かったんですよね。プレーヤーとして輝きを増していったのは、まさにベンゲルが来日した95年から。それで僕もピクシーのことをいろいろ調べるようになったんです。
90年のワールドカップ・イタリア大会での活躍とか、代表でのチームメイトにサビチェビッチやミヤトビッチやミハイロビッチがいて、彼らがヨーロッパで大活躍しているとか。今だったらネットですぐにわかるんでしょうけれど、当時は雑誌くらいしか情報が得られないですからね。そうやって、いろんなことがわかってきて「すごい選手が名古屋に来てくれたんだ」と。
──そこからどんどん、ユーゴ代表にハマっていったわけですね(笑)?
小柳津 そうです。高校の時にワールドカップ・フランス大会の予選が始まって、毎日のようにノートの空きスペースにプラーヴィ(ユーゴ代表の愛称で「青」の意味)のユニフォームを着たピクシーを描いていました。先生から「これは何だ?」と聞かれてピクシーと答えたら、「ユニフォームは赤じゃないのか?」と言われて、ユーゴ代表はこの色なんですって説明していましたね(笑)。
──そういえば当時、サッカーマガジンに投稿していませんでした(笑)?
小柳津 しました、しました(笑)! マガジンの読者投稿欄に、僕のピクシーのイラストが2回くらい掲載されましたね。確か、今も実家に残ってあるはずです。フランス大会の予選中ということで、表紙がゴン中山だったのを覚えています。当時はマガジンと月刊グランが僕の愛読書でしたね。
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