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宇都宮徹壱ウェブマガジン

【無料公開】『前だけを見る力』松本光平の原点 第2章「15歳での禁断の移籍」より<1/2>

 今週は、私が構成を担当した松本光平著『前だけを見る力 失明危機に陥った僕が世界一に挑む理由』から、第2章「15歳での禁断の移籍」を無料公開する。

 本書は6つの章で成り立っており、それぞれの章は3つのパートに分かれている。まず、構成を担当する宇都宮徹壱によるイントロダクション。続いて、著者である松本光平による回想。さらに、回想を裏付ける関係者へのインタビューである。

 メインはあくまで、松本光平の回想。ただし彼のキャリアを紐解くと、さまざまなテーマが浮かび上がってくる。Jクラブの(当時の)育成や日本人選手の(当時の)海外移籍の状況。あるいは、オセアニアや視覚障碍者の知られざるサッカー事情、などなど。さまざまな領域の理解を促進するのが、イントロダクションの役割である。

 一方、関係者へのインタビューは、単なる「答え合わせ」が目的ではない。ここでは、さまざまな分野で活躍し、名を成した人々が登場する。そんな彼らが、松本光平というフットボーラーに対して、どのような眼差しを向けているのか。彼らの率直な発言から、松本光平という人物像を多面的に深堀りしていく。

 この第2章でカバーしているのは、1997年から2007年。すなわち、クーバー・コーチング・サッカースクールで本格的にサッカーを始めた小学3年から、ガンバ大阪ユースからトップチームに上がれなかった高校3年までの回想である。さっそく、松本光平のフットボーラーとしての原点に、皆さんをご案内することにしたい。

 松本光平は、元号が昭和から平成に変わった1989年の5月3日、大阪市住之江区で生まれた。

  その隣の西成区は「釡ヶ崎」や「あいりん地区」として知られ、誰もが訪れたいと思う土地とは、お世辞にもいい難い。それでも、彼が幼少期を過ごしたであろう街の空気を体感すべく、大阪で日本代表戦があったタイミングで足を運んでみることにした。

 西成には、懐かしさと厳粛さが入り混じった風景が広がっていた。

 古い文化住宅が並ぶ路地裏を歩くと「犬のフンお断り」とか「ネコに餌をやらないで!」といった張り紙がやたらと目立つ。どっぷりとした昭和の風景。しかし、そこには往時の活気はない。シャッターを下ろした店が並ぶ商店街と、お年寄りの多さを見るにつけ、令和の現実を痛感する。

  やがて、南津守さくら公園に到着。ここはかつて、セレッソ大阪の練習場であった。トップチームが舞洲に移転してからは、セレッソの育成年代や女子のトレーニング施設として利用されている。

  松本光平が4歳になった1993年、Jリーグが開幕。それから2年後、セレッソは府内で2番目のJクラブとなっている。地元に誕生したJクラブが、彼の目指すべき対象となっていくのは、ごく自然な流れであった。

 大阪では、小学生時代の松本光平を知る人物に会うことができた。株式会社クーバー・コーチング・ジャパンの伊藤晋と吉川啓太である。独自の指導メソッドで世界中に展開している、クーバー・コーチングのサッカースクール。松本光平が入団したのは、小学3年生のときであった。住之江校で指導していた伊藤は、こう回想する。

「もう20年以上も前ですよね。お母さんに連れられて、ふたつ下の弟と一緒にうちで預かることになりました。わーっと騒ぐようなタイプじゃなくて、こちらの与えたトレーニングを黙々とやるような子でしたね。常に自分のベストを更新することに、目標を置いているようなところがありました。『あいつもやっているからサボろう』みたいなところは一切なかったです」

  その2年後に指導を担当した吉川は、こんな興味深いエピソードを披露してくれた。特に条件を与えずに1対1の練習を始めたとき、松本光平はドリブルで相手を抜き去ることなく、コーチから受けたパスをダイレクトでシュートしたというのだ。

「サッカー的には、そっちが正解だと思います。でも最近は、子どもでも指導者に忖度するんですよ。こちらの意図を汲んで、それに沿ったプレーをしたら喜ぶだろう、みたいな(笑)。でも光平は、まったく違いました。周りの空気を読むことなく、どうしたら効率的にゴールに結びつけることができるのか、そこを考えていましたね」

 周囲の影響を受けず、誰にもおもねることなく、ひとり黙々とトレーニングを続ける。松本光平のストイックでブレない姿勢は、実は子ども時代からの弛まぬ習慣であったことが、彼らの証言からも明らかになった。

 やがて松本光平は、中学に進学した2002年にセレッソ大阪U-15に合格。南津守のグラウンドに3年間通うことになる。当時の指導者から高い評価を受けており、U-18への昇格も決まっていた。

  ところが松本光平は、周囲の期待に背を向け、ガンバ大阪のユースを目指すことを宣言。前代未聞のハレーションを起こすことになる。

 今でこそガンバとセレッソは、クラブ間での人事往来も珍しくなくなり、かつての「禁断の移籍」というフレーズも過去のものとなりつつある。しかし、松本光平がセレッソからガンバに移ろうとした2004年の時点で、それはタブー以外のなにものでもなかった。

 結果として松本光平は、15歳にして「禁断の移籍」を果たす。しかしその決断によって、彼は少なからずの人間関係を断ち切ることとなり、移籍先でもさまざまな試練と向き合うこととなった。そうした逆風をものともせず、自身が信じる道を突き進む姿は、その後の彼のフットボール人生を暗示しているようにさえ見える。

 最後にひとつ、お断りを。本章には、当時の育成指導に関して、いささか眉をひそめたくなるような 記述が出てくる。もちろん、今から15年以上も昔の話だ。現代なら問題視されそうなエピソードも、当時の育成現場を知る者なら耳目にしてきたものばかりであり、その多くは関係者の努力によって改善されている。

 ゆえに、決して特定のクラブを貶める意図がないことだけは、ご理解いただければ幸いである。

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