【ゆきラボ】実は元バスケ部ホケツでした。ゆきののホケツ話
こんにちは!日常コラム担当、ゆきのです。今年のフライブルクマラソンまで、あと1か月と迫ってきました。「風邪を引かずにちゃんと出る」「ケガなく完走する」の2点を目標に、3月はせっせとトレーニングを続けています。欲を言えば自己ベストも更新したいですが、そこはおまけの目標という感じです。
なんで走るの?というそもそもの質問を時々されるんですが、そこを掘り下げて考えると多分、根っこの一つは私のホケツ時代にあります。今回のゆきラボは3刷目になった『3年間ホケツだった僕がドイツでサッカー指導者になった話』がもっと長く読まれ続けますように!という願いを込めて、私のホケツ話を書かせて頂こうと思います。
イメージ https://www.photo-ac.com/ 鉄棒は苦手オブ苦手でした
小学校のときの私は、自他ともに認める体育が苦手な子でした。まず足が遅い。クラスで後ろから数えた方が早いくらいに遅かったです。ドッジボールで逃げるのは上手でも、球は上手く投げられない。跳び箱は得意だけど、鉄棒やマット運動は全然だめ。縄跳びも苦手でしたが、クラス対抗の縄跳び大会があったため、クラスの足を引っ張りたくない一心でようやく跳べるようになりました。進んで運動部には入りそうにないタイプだったと思います。
小学校の部活動は希望者のみでしたが、中学になると全員かならずどこかの部に所属しなくてはいけなかったので、そのときに選んだのがバスケ部でした。時は1990年代、バスケットボールマンガの金字塔「スラムダンク」が週刊少年ジャンプで人気絶頂だった頃です。それまでは部員の少なかった女子バスケ部でしたが、スラムダンク効果だったのか偶然なのか、私の学年から始まってその後しばらく、バスケ部入部希望者の多い時期が続きました。マンガきっかけなので、同学年で入部した子たちは全員バスケ初心者です。ただし、私以外のほとんどは基本的に運動神経が良い子ばかり。たぶんバレー部に行こうがソフトテニス部に行こうが活躍できていたであろう子たちに交じって、「なんでお前が(笑)」とからかわれながら、私も入部しました。
全員初心者というスタートこそ同じでしたが、もともと運動能力の高い子たちがどんどん上手くなっていくのに対して、私はずっとホケツでした。公式戦でも交流戦でも、とにかく試合に出た記憶がほとんどありません。1年経ち、2年生になっても、あとから入部してきた1つ下の子たちのほうがどんどん上手くなっていくような有様でした。もうずいぶん昔のことなので、当時の気持ちはほとんど覚えていません。悔しいとか悲しいとかではなく、ただ、仕方ないよなあ、という感じ。上手くないのは自覚していましたから。ごくたまに試合に出ても、緊張してどう動いたらいいかわからない。相手にも場の空気にも気圧されているうちに、交代させられてベンチに戻る。3年の夏に引退するまでずっとそんな調子でした。
通っていた中学校は1学年3クラスで、それほど大きな学校ではありませんでしたが、周囲には生徒数もバスケ部員も多い強豪校が何校かありました。ベンチに入れない生徒たちは学校のジャージを着て、スタンドにびっしり並んで声援を送り続けていました。試合には出られなくても、3年生になればユニフォームが着られて、背番号がもらえて、ベンチに座れているのだから、まあ良いほうなのかも、というくらいに当時は思っていた部分もあります。
イメージ https://www.photo-ac.com/
「生徒は全員必ずどこかの部に所属する」という決まりがあったので、例えホケツは嫌だなあと思っていても「とにかくバスケ部にいる」か「転部してもう一度別の分野で初心者からスタートする」かの2択しかありませんでした。サボればその学年の連帯責任です。先週のゆきラボで「努力」の話を書きましたが、望むと望まざるとに関わらず、求められるのは引退の日まで毎日練習に参加して努力し続けることで、それ以外の選択肢はない。そういう環境でした。
そんな3年間のホケツ生活でしたが、思わぬ副産物があったんです。後半に続きます。
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