中野吉之伴フッスバルラボ

指導者育成に答えはないかもしれない。でも、子どもが思う存分サッカーができる環境を作ることは何よりも大切だ

▼指導者育成とは、答えのないものなのかもしれない

前回のコラムでミッテルライン州サッカー協会の専任指導者ベレーナ・ハーゲドルンさんによる、B級ライセンス講習会のレクチャー内容についてお届けした。原稿に起こしながら、いろんなことを考えていた。私も日本一時帰国時には全国を行脚しながら講習会や講演会を数多く行っているが、指導者ってどうあるべきかそのもの以上に、それを現場の指導者にどう伝えていけばいいのかの方が難しいなあと改めて感じることが多い。

先日フットボリスタのWEBで「全員出場は理想ではなく最低条件」というコラムを掲載してもらった。SNSでは賛否両論いろいろとあるようだ。共感してくれる人がいれば、猛反発する人だっている。こちらがどれだけ正しいとされることを訴えても、それが響かなければ変わるものも変わらない。何回も、何十年も、同じことを伝え続けていても、見向きもしない人は今でも見向きをしない。自分が思い続ける”正義のほこ”をしまおうとはしない。他の武器を手に持とうとはしないし、他の戦い方を考えようともしない。

仲のいい指導者に日本のある地域の幼稚園サッカー大会の要綱を教えてもらった。このご時世で、これだけ情報があふれていて、これだけ様々な試みが世界中で行われているのに、8人制で、1本12分で、ファールスローは普通にとって、ゴールキックの時は5mだけ離れればいいという不変性。なんなのだろう?私には不思議なことでしかない。でも当事者には何一つ不思議なことがない。40年間、現場で起きている異変に気付かない人はおそらく100年たっても気づかないのかもしれない。子どもたちにいいことをしているという圧倒的自己満足の中から出てこようなんてしない。もちろん、気づく人もいるだろう、でも。やっぱり、気づこうともしないまま、年月を過ごしていく人の方が多いのだろう。

▼強制的なルール設定も必要?

だからこそ、時には協会として、強硬的に各年代ごとの試合環境、リーグのあり方、指導者の条件というものを揃えなければならないこともある。それは間違いなくある。変えなければならないことはたくさん、たくさんあるんだし、日本サッカー協会とは本来そのためにあるべき存在だと思うからだ。

協会の方で指導者のガイドラインをしっかりと作り上げ、各クラブにおける取組をチェックし、スポーツ少年団でもしっかりと育成部長を据えるように指導し、彼らにコンプライアンス研修を行い、それに反する指導者には活動休止や禁止の措置を行う。地方サッカー協会職員のリフォームを行い、しっかりと統括できるようなクリアな組織づくりを目指す。現場にだけ苦労を強いらずに、協会の方からは金銭的な補助をしたり、グラウンドの手配や分配などでこれまでの何十倍もサポートするようにする。口だけ出して、現場を混乱させる指導はいらない。ギブアンドテイクの関係、ウィンウィンの関係になれるような政策こそが求められている。協会だけでお金がだせないなら、文科省でも絡んできてほしい。スポーツはスポーツだけの問題ではない。余暇の過ごし方とはこの国で生きる人が持つ権利であるはずだし、そこへの投資は国の大事な仕事であるのだから。

▼やっていいこととダメなことの線引き

こんな記事を見つけた。要約すると試合の遠征費をねん出するためにわざと、普段はAチームに出れない子をBやCチームから選出し、一緒に試合にいけることを喜ぶその子やその家族の気持ちを逆利用して、そのことをほくそ笑んでる関係者がまことしやかに、でも確かに、でもかなりの数いるという。これも「理不尽を学ぶことが大事」という誰が考えたんだかわからない、ただのうそつきの雑言を信じているからなのだろうか。いずれにしてもこれはただの悪だ。意図的にやっているのだから、余計にたちがわるい。試合に出れないのに一生懸命準備して、すごく興奮して、試合会場に向かうその気持ちを考えると、悲しいなんて思いじゃ整理がつかないくらいにつらくなる。

できるのであれば、そんなことが一掃されるような政策が行われることを期待している、とても。やってはダメなこと、踏み越えてはならない線をしっかりと引くことは、サッカー協会として、あるいは日本体育連盟として、もしくは文科省として、さらには日本政府として、取り組まなければならない大事な、大事なことではないのだろうか。

でもたぶん、そんなことは近い将来には起らない。そんな視点でスポーツはまだまだ多くの人にみられていないし、だからそもそも現実味のない空論でしかないのはわかっている。

▼強行突破だけでは解決しない

それにじっくり考えると、もしそんな強権な変革が現実問題動き出したとしても、「どう考えても間違っているし、そんなのはダメだから」と強制することが将来的にすべてを解決してくれるわけでもないというのが難しいところだ。というのも、グラスルーツの現場で起きているものは、その国の社会、スポーツのあり方の縮図であるからだ。良くも悪くも、そこにはその国で生きる人々の気質というものが浮き上がって来ている場所だからだ。変わった方がいいと思う人がいれば、とっくに世の中は少なからず変わっている。多くの人々にとっては、「変わった方がいいのかもしれないけど、変わらなくても特に気にはならない。しょうがないから」くらいのものだったりする。残念だけど。悲しいことだけど。でも、現実ってそういうものだ。

例えば、部活のあり方を変えようと週休2日制度が導入された瞬間、あるスポーツの部活がそっくりそのままクラブチームとして発足し、これまで通りのやり方で毎日激しいトレーニングを積むというすごい知恵を発揮する人がいる。そしてそうしたアイディアを歓迎する保護者がたくさんいたりするわけだ。それにしても知識とは、その人の価値観をフィルターとして通すことで、いくらでもポジティブにもネガティブにも作用するのだなと思う。いずれにしても、そうした人の価値観そのものを変えることは難しい。というかほぼ不可能かもしれない。

グラスルーツに携わっている人の多くが、「全員出場など必要ない。勝つために戦うことが子どもたちにとって大事なんだ」「気合、根性。理不尽なことを耐え抜く力こそが重要だ」という気持ちのほうに傾いているのだとすれば、それはこの国の全体的にそうした傾向・嗜好を自然と思っている人がまだまだ多いからでしかない。いや、まだまだどころか圧倒的に多いのかもしれない。そうした人たちが、強制的にこれまでのやり方を否定され、全く違うやり方に対応しろと言われて、その通りになるだろうか?ならない。「世の中は理不尽だから子どもにうちから慣れておくことが大事」「勝つことこそがすべて」と周りの人が同調したら、それが正しいことになってしまうのだから。

でもいつまでもそれでいいの?そんな価値観で将来もずっと生きていくのは望ましいことなの?

世の中が理不尽だったら、それを直すにはどうしたらいいか、それがない社会がどれほど素晴らしいかを提示する方が、育成の世界では必要で、まっとうで、だからこそ整理されていかなければならないところではないのだろうか。おかしなこだわりに取りつかれている人たち、理念も理想もなくしてしまっている人たちに負けないくらい、その何十倍、何百倍も「スポーツとはそうであってはならない。子どもたちが心底楽しめる、そしてそこで一生懸命取り組める、そんな環境を作り出さないといけないんだ」と思い、声を上げ、動き出す大人が増えてくることが大切なんだ。

そう考えると、「大会に勝てるかどうか」「スクール運営がうまくいくかどうか」にしか興味ない人に、壮大な育成プランを語ってもピンとなんかきやしない。だからといって、そうした人に「こうしたやり方の方が実は大会にも勝てるんですよ」ともっともぽく、こちらも知恵を絞ってアプローチをしたところで、それは一過性のものでしかない。即効性のあるものしか求めない人に、即効性がありそうなものをみせてごまかすことができても、いつまでも辛抱強く付き合ってくれるだなんて思えない。すぐに結果が出るものは、すぐに結果が出なくなるものでもあるのだから。じっくりと身につけることと向き合えない人には、どうしたって相性が悪い。

▼真正面から正攻法でやっていく

だから、私はいつでも正攻法での取り組みを大事にしている。もっともらしいことではなく、もっともなことを伝え続けていく。それを嫌悪している人には絶対に響かないだろう。だから彼らは私がいくら伝え続けてもきっと変わらない。それで別に構わないとは思わない。でもそれ以上に、私の思いに共感し、大切にしてくれる人には心の芯まで響いていく。それが行動につながり、一つでも違う動きが生まれたら、そこには力が宿る。私1人の力ですべてを変えることはできない。でも、私の精一杯の真っすぐが、ひとりでもふたりでも動かすことができるのであれば、その彼らの下で何十人の子どもたちが笑顔になることができるんだ。その彼らが、また後世へと伝えていく。そんなサイクルをどんどんどんどん増やしていくことが大切なのではないだろうか。

近道なんてどこにもない。一見遠回りかもしれないけど、地道で、まっとうで、まっすぐな取り組みこそが、仲間を増やし、きずなを深め、大きくて、強くて、しなやかなものになっていくと信じている。

こんな彼ら、彼女らの生き生きとした表情を見て、心を動かされないだろうか。子どもたちの笑顔を守ることに、彼らが笑顔がいられるような場を整理することに、理由なんていらない。それがどれだけかけがえがなく、どれだけ素晴らしく、私たちの生活を、世界を豊かにしてくれることか。本当は誰だってみんな知っているはずなんだ。

目的は、打倒勝利至上主義なんかじゃない。彼らには彼らの思いがあるだろう。それが力になることだってあることもわかっている。一生懸命純粋に頑張っている子どもたちの思いを悪いことだなんて、ののしるつもりもない。そうした中で生まれる大事なものだってある。その中で力を発揮できる人だっている。

でも、その中で苦しんでいる子どもが、大人がいるのであれば、そうではない生き方も、そうではないサッカーとの向きあい方もあるのだというのは、みんなが知る権利があるはずなんだ。どれを選ぶのか。それは個人の自由だろう。でも、それすらできない世の中はフェアじゃない。だからそこだけはしっかりと仕組みとして整えられなければならない。

勝利を目指すことを優先しようとも、どんなスポーツであっても、私たちはスポーツマンシップを大切にするべきなのは忘れてはならない。それは私たちがどんな人間でありたいかの大事な指針でもあるのだから。それを捨て去っておこなうことのまがまがしさから目を背けてはならないのだから。

私は理想論なんて語っているつもりはない。本来あるべき姿を忘れるなと言っているだけなのだ。そして私たちが願い、動けば、思いのほかすぐに、それを手にすることはできるものかもしれないのだ。だから、私はぶれることなく今後もやり続けていく、皆さんと一緒に。

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