中野吉之伴フッスバルラボ

ドイツでの子育て、納得いかなかったことが腑に落ちた。万年筆の話・後編

こんにちは!ゆきのです。

前回の記事では「なぜか低学年から万年筆を使わせるドイツの小学校」についてお伝えしました。日本で生まれ育った私には、小学生には鉛筆でしょうという思いこみがどうしてもあり、インクのシミがついたTシャツを洗いながらため息をつく日々だったのですが、あるとき興味深い記事を見つけました。

「よく書く」ための鉛筆。「よく考える」ためのペン。

ここでは次のようにペンと鉛筆の違いを紹介しています。

『例えば、作文を書くとしよう。鉛筆ならちょっと考えてすぐに書いてみるに違いない。「なんか違うなあ」と思ったら消してまた書けばいい。でも、ペンならまずとてもよく考えないといけない。何を書くか。どう書くか。スペルは。レイアウトは。言葉の区切り方は。時には、試しに下書きを書くこともある。このときは、鉛筆を使うこともある。全てを隅々までイメージできたら初めてペンを持って書くという仕上げに入る。

書いたものは、消すことができない自分の意見として永遠に紙に刻まれる。だから、意見もそれなりにしっかりするし、なによりキレイな考え抜いた文章が残る。つまり、「よく考える」を極めた文章になるわけだ

『だから、よく考えてから書くことを自然と覚えていく。鉛筆を使って「書きやすく」するのか、ペンを使って「考えやすく」するのか、実は書く道具がそのプロセスを決めるのだ』

なるほどつまりドイツの学校では「書く前によく考え、しっかりした意見を持ってから書くということ」を子どもに求めている、ということなんですね。実はドイツの学校では、年齢が上がるにしたがって記述式の問題がどんどん増えていきます。正解を選んだり暗記したりするだけではなく、テーマについて自分の言葉で説明したり考えを述べたり、ときにはノート数ページにわたってそれを文章化することが求められるようになります。よく考える、そしてペンで書く、書いたものは消えないで残る。それを繰り返しトレーニングしていくのです。

もちろんの子どもがそれに順応できるわけではないと思いますが、少なくともドイツ社会「自分の意見を持ち、言葉でしっかり表現できること」行動する前によく考えることよしとする文化があることは間違いなさそうです。

だったらボールペンでいいのでは?という疑問は残るのですが、これについてはまたの機会に書いてみたいと思います。いずれにしても「消えない筆記具」を使わせることで、子どもの中に育つものについては理解できました。

ちなみに我が家の子ども達は週1回日本語教室にも通っているのですが、日本語の文章にはなんといっても「漢字」があります。子どもが文章を書いていくのに、漢字の存在はかなりハードルが高い。書き間違えても消せないペンよりも、間違えた箇所だけ消して直せる鉛筆のほうが、日本の学校には向いているのかもしれません。

※画像出典:ナージャの6ヶ国教育比較コラム

この記事を書いたナージャ・キリーロさんは旧ソ連時代のレニングラード生まれ。親御さんの転勤に伴ってロシア・イギリス・フランス・アメリカ・カナダ・日本と6カ国を転々としながら育ちます。その遍歴だけでもすごいのですが、当時のことを明晰に記憶していて、大人になってから各国の教育のあり方を「電通報」に掲載。書籍化もされました。

キリ―ロさんのコラムの魅力的なところは、教育を受ける子どもの目線から見たそれぞれの国の学校の在り方を書き記していること。そして、様々な学校の在り方について一方的優劣や好悪の判断をしないことです。子どもとして、正直なところ「私はこっちの方が好きだったのに…」「この国のここがイヤ!」というネガティブな気持ちきっとあったのではないかと思うのですが、それ以上に好奇心旺盛なキリ―ロさんは「この国の学校では、なんのためにこんなことをするんだろう?」とその背景を読み取ろうとします。外から見たらどんなに奇妙に思えることでも、その国ならではの事情、必然性があるのですから。

ご興味のある方は「ナージャの6ヶ国教育比較コラム」で記事がまとまっているので読んでみてくださいね)

教育社会学の分野には「ヒドゥン・カリキュラム(隠されたカリキュラム)」という言葉があるそうです。学校で過ごすとき、授業内容そのものだけでなく授業の環境からも子どもたちは無意識のうちに様々なことを吸収しています。教師をはじめとする大人のふるまい、教室の景色、学校でのルール、学校で扱う教材、などなど。どんな筆記用具を使うかはまさにこの隠されたカリキュラムの一つで、何を使って書くかによって、子どもの中には書いている内容以上のことが刷り込まれているのです。

同じことは、地域でも、家庭でも、スポーツクラブのような団体でも起こります。体育の授業やスポーツクラブで、全員同じスポーツウェアを着用しなければならないところと、動きやすい自由な服装で構わないところとでは、おのずとその場の雰囲気も、その場にいる人間のメンタリティも変わってくるはずです。

私たちの何気ない日常の習慣や、当たり前になっている学校や社会での振る舞いの中にも、文字通り隠されたカリキュラムが存在しています。ときどき「なんのためにこんなことをするんだろう?」「これをやることで、子どもたちの中にどんな力が育つのかな?」と立ち止まって考えてみることはとても大切です。そして、もしもそこに理不尽さや、効果に見合わない負担の大きさを感じたら、止めたりやり方を変えてみたりする柔軟さも忘れてはいけないと思います。息子たちの万年筆問題と、キリ―ロバさんのコラムは、そんなことを考えさせてくれました。

今週もお読みくださりありがとうございました!

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