【無料:石井紘人コラム】「審判は決して敵ではない」「○○を笑うものは●●に泣く」
「サッカーには文学になったたくさんの孤独がある。しかし、本当に孤独なのは主審なのだ」
あのコッリーナが好きなダーヴィン・パストリンの言葉は、ある意味では「かくも多くの人が、かくも多くのことを、かくも少ない人に依存」するという特殊な状況を物語っている。
多くの人々に試合中の行動を監視され、批判される審判員という仕事は、その特殊な状況を日常としなければいけない。とはいえ、彼らはその特殊な状況に興奮を覚えているわけではない。
ただ、単にサッカーが好きなだけというサッカー馬鹿の集団とも言える。
Jリーグレフェリーチームの1月からルヴァン決勝までを追った
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しかし、審判員に対し、敵対感情を抱いているサポーターは存在する。
それは、スタジアムに足を運べば否が応にも感じてしまう。コンタクトプレーで選手が倒れる度に、その選手への後押しが、なぜか審判団への罵詈雑言となる。なかには、試合前の審判員の紹介にブーイングを送るサポーターもいる。
そして、残念ながら選手と審判が『vs』のような雰囲気になってしまうケースもある。主審がカードではなく、注意で収めようとしているのにもかかわらず、コミュニケーションを無視する選手もみかける。
一方で「審判員も仲間」ということを態度で示す選手たちもいる。
1996年12月5日。UAEで開催されたアジアカップの予選リーグにて、特殊な状況が生まれてしまった。なんと、イラン×イラクという戦争を起こした国同士が初戦でぶつかってしまったのだ。同組にサウジアラビアがいることを考えると、絶対に負けられない試合である。
ゆえに、「スタジアムも異様な雰囲気だった」と主審を務めた岡田正義はいう。「私も緊張していた」と。
そんななか両チームのキャプテンは、緊張する岡田に対し「我々はレフェリーに協力する。良い試合にしよう」と語りかけたのだ。
岡田は当時を思い出し、「何とも言えない感動がこみ上げてきました。試合で何かがあったら国同士の問題に発展しかねないことを選手たちが一番よく理解していたのだと思います」と振り返る。
サッカーは戦争ではない。選手と審判で良いエンターティメントを作ろうとする最たる例といえるのではないか。
亡くなった松田直樹もそうだった。2010J1最終節。岡田のJリーグ引退試合となった横浜FM×大宮戦。試合が終わると、松田は岡田の元に歩み寄った。
「御苦労様でした。僕はまだサッカーを続けます」
この日で横浜FMを去ることになっていた松田。0-2での敗戦で思うところもあっただろうが、“仲間”である岡田の引退を労わずに入られなかったのだろう。「エキサイトすることもある大変な選手」ではあったが、そのノーサイドの精神が根底にあるからこそ、ダーティーなイメージがつかなかったと思う。
だからこそ、先日の大誤審後の選手たちのTwitterは残念だった。
岩政大樹氏が全て伝えてくれている(参照リンク)ので、私は『競争』とは違い、『敵対関係』は何も生み出さないことを強く言いたい。たとえば、先述の政治的な両国の敵対関係でいえば、日韓関係で進歩したものはあるだろうか?むしろ生じるのは停滞感だ。
監督や選手が審判との『敵対関係』を感じる表現を行えば、それはファンやサポーターにも伝染してしまう。
そこで生まれるものは、後世にも『敵対関係』を残すという負の遺産である。
審判は決して敵ではないし、笑う必要もない。決定的なミスをした選手と審判。どちらもサッカーファミリーである。同じサッカーファミリーとして、成長を促すためのオルタナティブある議論を行うべきではないだろうか。(『岡田元主審と選手の知られざる秘話「審判は決して敵ではない」』を再編しました)
■浦和レッズ×湘南ベルマーレ戦で山本雄大審判団に不足していたものとは?オルタナティブある批判をしてみた(参照リンク)