川本梅花 フットボールタクティクス

【無料記事】なぜサッカーが選ばれたのか?全ての映画は恋愛映画である【コラム】映画「少林サッカー」

映画「少林サッカー」を見て

映画のプロット

かつて「黄金の右脚」と呼ばれた男がいた。彼は八百長試合に加担した結果、 右脚を負傷して選手生命を絶たれる。やがて彼は、少林拳を世に広めたいと願う若者シン(チャウ シンチー)と出会う。シンの兄弟たちとともにサッカーチームを結成し、全国大会を勝ち進んでいく。この作品は、チャウ シンチーが、監督・主演を務めた奇想天外極まるスポーツアクション映画であり、恋愛映画だと言える。

なぜサッカーが選ばれたのか?

人は誰もが「こんな風に格好良いはずだ」という、自分の理想像を持っている。「少林サッカー」の監督・主演をこなしたチャウ シンチーは、自身の思い描く「こんな風に格好良い自分」を、映画の中でとことんまで突き詰めて表現しようとする。そのため、映画の中で「これはありえないよ!」という現実不可能なサッカーのプレーも連発させる。

映画を見終わった後で、ふと思うだろう。どうして題材がサッカーでなければならないのかと。「少林サッカー」 は厳密に言えば、サッカーをメインテーマにした映画ではない。 映画のテーマは、少林拳という武術をどのように世の中に広めるかにある。サッカーは、その手段にすぎない。団体による球技ならば、ラグビーでもバレーボールでも、ほかに山ほどある。それが、どうしてサッカーでなければならないのか。

まず考えられるのは、興行面の問題だ。この映画は、FIFAワールドカップ日韓大会に向けて作成され公開されている。次に実技面。少林拳の技の基本に「蹴り」があるため、「蹴り」を思う存分に発揮できるスポーツでなければならない。実際に映画の主人公・シンは「鋼鉄の脚」と呼ばれ、ものすごいキック力を持っている。物語面では、家族への愛や恋人への愛などの「愛」を表現するのに、サッカーというスポーツが適していたのではないか。

そんな風に真面目に考えてみたものの、本当のところは、チャウ シンチーが映画で両足を使って魅せた「オーバーヘッドキック」を撮りたかったために、サッカーを選んだのではないかだろうか。

全ての映画は恋愛映画である

「少林サッカー」は、まるでチャウ シンチーのプロモーション映画だ。彼が一番の男前として映るために、登場する脇役は全て不細工な男子ばかりを起用している。そう思えてくるほどだ。そんな風にあれこれと思案していると、映画評論家の故・淀川長治のある言葉が浮かんできた。彼は「全ての映画は恋愛映画である」と言った。このアフォリズムで彼が語っていることは、どんな映画でも恋愛作品と捉えられるということだろう。

また、そういう視点に立った時に、映画はより一層身近なものになってくる。従って「少林サッカー」を1つの恋愛映画として捉えると、サッカーでなければならない理由もうかがい知れる。映画の中で、主人公シンが、饅頭屋(まんじゅうや)で働く女子のムイと出会う場面がある。

彼は貧しいので、食べた饅頭代を払うお金さえない。代金のかわりに破れたスニーカーを彼女に渡す。彼は、コーチのファンに説得されてサッカーを始めることになり、数日後、代金の替わりに置いていったスニーカーを返してもらおうと店にやってくる。そこで彼女は、自分で修理したスニーカーを彼に手渡す。ここから2人の絆が生まれていく。シンは、「君はきれいだ」といつもブスな役回りのムイを励ます。次第に彼女は、彼に恋心を抱き、「これは愛なのね」と告白する。

しかし、自分のことしか考えられないシンは、相手の気持ちを受け入れる術を知らない。傷心したムイは、饅頭屋を辞めてどこかに消えてしまう。シンは、彼女が辞めた理由を女店主に尋ねる。ムイの作る「饅頭が塩っぽくなったから」と言われる。ムイの流した涙がこねている饅頭に滴り落ち、味が甘くなくなってしまったと知るのだ。ここでシンは「自分が彼女を励ましていたのではなく、彼女に自分が励まされていた」ことに初めて気付かされる。

だまされてもよいと思わせる映画

物語の最後に行われるサッカー大会の決勝戦で、シンは、再び彼女に救われる。サッカーという競技は、個人の技術がいくら優れていようとも、チームとしてのまとまりと選手間の信頼関係なくしては、チームとして成立したことにならない。そのことを教えてくれたのが、彼女の愛である。

「少林サッカー」は、いろんな場面で「ありえないよ」と言いたくなるウソのような物語で覆われているのだが、作り物でウソと分かっていても、チャウ シンチーが映像化した「愛」の形にだまされてもよいと思わせる映画だった。

川本梅花

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