川本梅花 フットボールタクティクス

【無料記事】サッカー選手が同性愛を告白したのなら【コラム】映画「WE LOVE BALLS !!」を見て

映画「WE LOVE BALLS !!」を見て

―サッカー選手が同性愛を告白したのなら―

贔屓(ひいき)にしているサッカー選手が、「私はゲイです」と突然告白したら、彼のファンであるあなたは、いったいどう思うのだろうか? ファンを続けるのか。それとも彼を嫌いになってファンをやめるのか。

今回紹介するサッカーを題材にした映画は、「ゲイ」であることを知られてチームをクビになってしまった選手が主人公である。まずは、簡単なプロットから紹介しよう。

映画のプロット

マイナーリーグのクラブチームのGKである主人公エキーは、自分がゲイであることがバレて、チームをクビになる。やがて彼は、姉の住むドルトムントへ行く。彼はその街で、ゲイのサッカー選手ばかりを集めたチームを作る。そして彼は、そのチームを引き連れて古巣のチームと戦うために、再び故郷に凱旋する。サッカー界とセクシャリティという、シリアスなテーマを選びながらエンターテインメント性も忘れていない作品である。

サッカーとセクシャリティ

監督は、シェリー ホーマンという女性で、2009年には、名だたるファッション誌の表紙を飾った世界的トップモデルのワリス ディリーの自伝的な内容の映画を撮っている。今回紹介する「WE LOVE BALLS !!」は、2004年に公開されたドイツ映画である。

この映画のドイツ語の原題『Manner wie wir』は、「僕らのような男たち」の意味である。したがって『WE LOVE BALLS !!』は、日本向けバージョンのタイトルだと言える。アメリカ版のタイトルの『Guys and Balls』に習い、日本の配給会社が付けたのだろう。タイトルにある「Balls」はサッカーボールと男性器との掛け言葉になっている。

人によっては、ホモセクシュアルに関して理解しがたいとか、生理的に受けつけないなどの理由で、この映画自体を敬遠する人もいるかもしれない。最近では、石原慎太郎元東京都知事のTwitter上の発言が話題になった。

実際、石原元知事のような感情を内面に持って、TVに映るそうしたカテゴリーのタレントを見ている人もそう少なくないように思われる。だが、そういう先入観は脇に置いて、この作品を見てほしい。セクシャリティは重要なテーマだが、題材は、サッカーなのだから。

ロビー ロジャースとトーマス ヒツルスペルガーの告白

LAギャラクシーに所属していたロビー ロジャースが、2016年大みそかに、TVプロデューサーのグレッグ バーランティとの婚約をInstagram(インスタグラム)で発表した。アメリカ代表で人気のあったロジャースは、2013年に「ゲイである」とカミングアウトして、現役を引退した。北米スポーツリーグのスポーツ選手としては、史上初のカミングアウトであると、当時相当に話題になった。

ヒツルスペルガーは、元ドイツ代表で、自国ではボルフスブルクに所属していた。さらに、プレミアリーグではエバートンなどでプレーし、セリエAにおいてはラツィオでプレーしている。2014年に引退するまで、代表のキャップ数は52を数えた。

彼は、週刊誌『ディ ツァイト』の中で「自分が同性愛者であることを宣言する。世界のプロスポーツ界における同性愛者を可視化させたかったからだ」と言って、カミングアウトの理由を述べた。また「自分のあり方を恥じたことは一度もない」とも発言する。

ロジャースもヒツルスペルガーも、カミングアウトした理由は、ほぼ同じである。自分が「ゲイ」であることを告白することで、自分の自由性の確保と、告白できないでいる人への助けであろう。おそらく、彼ら2人には、1990年にサッカー選手として初めて「ゲイ」であると告白したジャスティン ファシャヌのことが頭の中にあったと思われる。彼の運命は「悲劇」の中にあった。

ジャスティン ファシャヌの悲劇

ファシャヌは、ノリッジ・シティなどでプレーしている。彼の父は、ナイジェリア出身でロンドン在住の弁護士であった。ノリッジでの活躍が認められた10代の少年は、ノッティンガム・フォレストに移籍していく。当時の監督は、ブライアン クラフと言って、フォレストの礎を築いた名物監督であった。同時に、セクシャルマイノリティーの存在には、不寛容でもあった。クラフは、フィシャヌが「ゲイ」であると知ると、試合で起用する機会を減らしていく。練習でも、監督は彼を避けるような態度を取った。

クラブから干されたファシャヌは、その後いくつもクラブを転々として、最後には、実の弟でイングランド代表だったジョン フィシャヌに絶縁されてしまう。暴行という冤罪事件に巻き込まれ、彼は、1998年5月に、首つり自殺をする。

イギリスでは、同性愛者に対する市民パートナーシップ制度が確立されているのだが、それでも、プロスポーツ選手の、特にサッカー選手が自身のセクシャリティについて告白することはあまり見られない。つまり、現代社会の中でも、自分の真の姿を隠さないと生きていけない世界なのだと言える。それだけ、閉鎖的な世界なのであり、実際は、恥ずべきことだと私は思う。

物語のターニングポイント

映画の中の物語のターニングポイントは、主人公エキーがカミングアウトしてしまう場面である。試合後にバーで飲んでいて、1人のチームメイトと気晴らしに裏路でシュートゲームを楽しむ。2人で戯れ合っているうちに、主人公が彼にキスをしてしまう。その現場をほかのチームメイトに目撃され、主人公がゲイであったことがバレてしまう。そして主人公自身も、自分がゲイであることをそこで初めて自覚するのである。やがて、彼がゲイであるという噂(うわさ)が町中に広がる。町の人々は、彼がゲイであること以上に、サッカー選手がゲイだということを許せないのだ。映画のせりふで「ドイツは何でも自由で良い国。だけど1つだけタブーがあるの。それはゲイのプロサッカー選手よ」という言葉がその事実を示している。

国技であるゆえのタブー

しかし、この映画には、サッカー選手がゲイという設定でなければならない理由があるのだ。それはドイツでは、サッカーこそが国民が安心してアイデンティティーを投影できる唯一のナショナルスポーツ、いわば「国技」であるからである。マイナースポーツであれば、主人公の苦悩や孤独、彼を追い込んでいく、周囲の拒絶の度合いはぐっと小さかったはずだ。

日本の国技である相撲界を想像することで、ドイツ人にとってのサッカー界の位置づけが実感できるのだ。例えば、ある人気力士が、実は「ゲイ」だったとカミングアウトしたならば、人はどう反応するのだろうか。『We love balls!!』で主人公を軽蔑する地元の人々と同じだろうか。

サッカー選手で自らゲイとカミングアウトしたのは、先に述べた数人の選手たちである。それ以外の選手となると、ほとんど表に名前が出てこない。なぜゲイであることが表に出されないのか? この問題に関して、自らもゲイであったフランスの哲学者ミシェル フーコーについて触れてみたい。

言葉が僕たちに牙をむく、ミシェル フーコーを通しての考察

フーコーは、私たちが生きている近代を、「言葉」のあり方を通してこんな風に捉える。「言葉」は、「存在」がそれと分かるようにはっきりと示すものとなった。つまりフーコーが言いたいことは、「言葉」が何かを表すための「レッテル貼り」に利用されるようになった、ということだろう。

「あいつは、ゲイだから」と語った「ゲイ」という言葉は、彼という存在が「ゲイ」であるとはっきりと示すと同時に、その言葉には「レッテル」を貼る方の優越感が表れていると考えられる。言葉によるレッテル貼りが盛んになったのは、個人の感情や趣向からではなく、権力を持つ者によってそうするように教育されてきたからだ、とフーコーを通して私は考える。逆に、カミングアウトできない方も、言えないように教育されてきたからなのだ。

この映画の中で主人公は、自分の存在を否定する人々に対して、ある対抗手段を取る。そのやり方は、ゲイたちを集めてチームを作って、ピッチの上で決着しようとするものだ。こうした主人公の行動は一見奇抜なようだが、実はとても理にかなっている。なぜなら、共通の性質と敵を持つ仲間でなければ、通じ合ったり、理解し合ったりできないことがあるからだ。さらに、サッカーで勝負するという選択は、アスリートであることの誇りさえ感じさせる。

フーコーの著書『言葉と物』の中で「言語は語の表れにすぎず、自然は諸存在の表れにすぎず、必要は必要の表れにすぎない」という文がある。私が彼の言葉を理解するならば、「ゲイはゲイの表れにすぎない」と言えよう。本来なら、どうしてあなたはゲイであるのか、という問いそのものが無意味なのだ。つまり、なぜゲイになったのかは理由がないのである。もし誰かがその理由を話したとすれば、何か言わなければならない、という脅迫観念からの発言でしかない。なぜなら私たちは、分からないことを分からないままにしてはおけない近代人が持っている「意味の病」に掛かっているからなのだ。

川本梅花

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