もしも「サッカー」じゃない人生があったなら 第07回:1994年の日本代表
■埼スタでのオーストラリア戦で30年前を想う
埼玉スタジアムにオーストラリア国歌「アドヴァンス・オーストラリア・フェア」が流れる。2024年10月15日に開催された、オーストラリアとのワールドカップ・アジア最終予選。日豪が同組となるのは、これで5大会連続。ふと、30年前の日本代表に想いを馳せてみる。
今から30年前、私がサッカーの仕事をスタートさせた、1994年という年をさまざまな切り口で振り返る、当連載。今回は1994年の日本代表について振り返ってみることにしたい。ここで皆さんに質問。この年、日本代表を率いていたのは誰でしょう?
すぐに「パウロ・ロベルト・ファルカン!」と答えられるのは、間違いなく50代以上のオールドファン。おそらく40代でも、それほど正解率は高くはないはずだ。歴代日本代表監督で、ハンス・オフトに次ぐ2番目の外国籍(南米出身では初)の指導者なのに、なぜファルカンは知名度が低いのか。その理由については、のちほど触れることにしたい。
で、その「ファルカン・ジャパン」(こういう表記には抵抗があるのだが、今回はあえて使用する)の初陣の相手となったのが、オーストラリア。開催されたのは1994年5月22日で、会場は広島ビッグアーチであった。ところがこの試合、当初はオーストラリアではなく、アルゼンチンが対戦相手となるはずであった。
事態が急変したのは、日本の法務省がディエゴ・マラドーナの入国拒否を決定したこと(理由は過去のコカインの使用歴だった)。これにアルゼンチンのFAが反発。「マラドーナが入国できないなら、われわれは日本には行かない」と遠征そのものをキャンセルしたのである。
その代役に選ばれたのが、当時はOFC(オセアニアサッカー連盟)に所属していたオーストラリア。急なオファーにもかかわらず、よくぞ引き受けてくれたものだと思う。ちなみに、この試合は1−1のドロー。ファルカン・ジャパンの初得点を挙げたのは、現在、鹿児島ユナイテッドFCで監督を務める浅野哲也である。
■誰も「ファルカン・ジャパン」のことを覚えていない?
結局のところ、ファルカンが日本代表を率いたのは、このオーストラリア戦を含めて、わずか9試合しかない。そのうち4試合は広島で開催されたアジア大会で、日本は準々決勝で韓国に2-3で敗戦。これが「ファルカン・ジャパン」のラストゲームとなってしまう。
ファルカンに関しては、代表を率いていた時よりも、むしろ就任に至る経緯のほうが話題になっていたように記憶する。前年の「ドーハの悲劇」により退任した、オフト前監督の後任は誰になるのか? それは、ちょっとした国民的関心事となっていた。
当時、JリーグチェアマンでJFA副会長、さらに強化委員長でもあった川淵三郎は、人選の条件に「修羅場をくぐった経験のある人物」を挙げていた。当初は、元ブラジル代表監督のテレ・サンタナと交渉していたが、条件面で折り合わず。その後も、ミシェル・イダルゴ、オズワルド・アルディレスといった名前が浮かんでは消えていく。
そんな中、唐突にリストアップされたのが、ファルカンだった。現役時代には、インテルナシオナル、ASローマ、そしてサンパウロでプレー。ブラジル代表では「黄金のカルテット」の一角として、1982年と86年のワールドカップに出場している。現役引退後、いきなりブラジル代表監督に就任するも、わずか1年で解任。その後は2つの国内クラブを指揮している。
ファルカンに極東からのオファーを伝えたのは、JFAの強化委員に名を連ねていたセルジオ越後。ちなみに彼は、優勝が至上命題だったアジア大会でJFAのチームスタッフとなっている。セルジオといえば「辛口評論」で有名だが、韓国に負けた直後のサッカーダイジェストの連載では、ファルカン・ジャパンを激甘評価していた。
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