「解釈する力」をみんなが身につけるために、「解釈させる力」を広めていくことが必要かもしれない
▼情報過多の時代に必要な術とは?
改めて言うことではないが、今の世の中には様々な情報があふれている。とてもではないが、すべての情報を把握することはできない。新幹線から外の景色を眺めていても、すべての情景が記憶に残るわけではなく、見えてはいるけど流れゆく景色の一部として消え去っていく。SNS上では日本だけではなく、世界中のいろんなジャンルの、いろんなカテゴリーから毎秒アップされている。どの情報が目に留まるのかわからない。たまたま開いたタイミングでトップに来ている情報から私たちはチェックしていくだろうし、あるいは特定のキーワードやジャンルから探していったりする。メディアは最大限の抵抗をしようと、少しでもそうしたスクロールの指の動きを止めるために、刺激的な見出しでこちらを挑発してくる。ん?と思い、ちょっと見る。ざっと流し読みして、ちょっとだけなるほどって思って、でもすぐに戻って別の情報へと気持ちは移っていく。その繰り返しの中で無数の情報はデーターベースの奥底に沈殿していくばかり。
ふと頭をよぎったのは「解釈力」という言葉についてだ。文字通り、「物事を解釈する力」と訳されるのが一般的だし、私もそのつもりで用いている。文章や会話からどのように事象を解釈し、咀嚼して、整理して、必要で有用な情報とすることができるかは誰もが身につけるべき能力だと思っている。
日本ではテレビの討論番組などを見てもわかるように、どうにも議論が苦手な方が多いように思える。議論が得意と言う人の多くは、自己主張することこそが正義!みたいな勢いで、ただ相手の意見を聞かずに自分の主張ばかりを口から泡をはきだしながら伝えようとする人ばかりという印象を受けるがいかがだろうか。あくまでもそういう傾向、印象があるというだけで、もちろん日本にも論理だてた思考で、相手の意見を受け止めて、そのうえで自分の主張を丁寧にする人だってたくさんいるのはわかってはいるが、SNSでよく散見される、どうにも相手の立場を配慮したり、相手の意見を理解しようと努力したりもせずに、難癖をつけて攻撃し続けるさまはなんだろう。
「相手を慮る」
「相手の迷惑になることをしない」
日本の美徳ではなかったのだろうか?
おもてなし?
それはいま何を意味しているのだろうか?
自己主張をすることと相手の意見を聞かないとは同義ではない。自己主張をするためには、相手の意見を聞き、理解をし、相手の立場・立ち位置・視点を考慮し、自分の意見との関連性を考え、何を受け入れ、何を指摘するかを整理し、どのように伝えるかを配慮したうえで、言葉を口から紡ぎだすことが求められるのではないだろうか。
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