【無料公開】オシムさんが僕らに語っていたこと 追悼鼎談:千田善×長束恭行×森田太郎<1/3>
写真提供:長束恭行氏
■「ジェリェズニチャル時代からのファンです」
──あらためて、皆さんのオシムさんとの出会いについて伺いたいと思います。最も出会う機会が早かったのも、千田さんだったと思うのですが。
千田 一方的にファンだった時代も含めるなら、僕がベオグラードに留学していた1980年代でしたね。ちょうどオシムさんがジェリェズニチャル・サラエボの監督をやっていて、レッドスターやパルチザンのアウェイ戦で年に2回はベオグラードに来ていたんですよ。当時のジェリェズニチャルが、ものすごくモダンなサッカーをやっていて、それで「監督はどんな人なんだろう?」と思ったのがきっかけでしたね。
──それがオシムさんだったと。念のために補足しますと、当時は旧ユーゴスラビアが健在で、セルビアのレッドスターとパルチザン、クロアチアのディナモ・ザグレブとハイドゥク・スプリトの4強に対して、オシム率いるボスニアのジェリェズニチャルが果敢に挑んでいくという構図でした。いわばアウトサイダー的な出自だったわけですが、その後はユーゴ代表監督、さらには兼任でパルチザンの監督になっていったんですよね。
千田 そうです。それから時代はうんと下って、オシムさんが日本代表監督になるんじゃないかというタイミングで、どこかのTV局でインタビューすることになったんですよ。通訳は間瀬(秀一)さんだったんですが、僕はその補助みたいな感じでご一緒したんです。その時に「ジェリェズニチャル時代からのファンです」と言ってクラブのマフラーを見せたら、お前は何者だって目つきで睨まれて(笑)。それが最初でしたね。
──そのシーン、目に浮かびます(笑)。長束さんがオシムさんの存在を意識したのは、いつ頃だったんでしょうか?
長束 存在自体は2001年、クロアチア留学をする前から知っていたんですけど、実際に見たのは2002年のズボニミール・ボバンの引退試合でしたね。前半がディナモ・ザグレブ対ACミラン、後半がクロアチア代表対ワールドスターズというカードだったんです。この時にイビッチとの共同監督として、ワールドスターズのベンチに座っていたのがオシムさんでして、僕はフォトグラファーとしてピッチサイドにいたんですが「これが本物か」と思いながら見入っていました。
──ボバンとの関係でいえば、オシムさんがユーゴ代表監督だった1990年のワールドカップには、ボバンをイタリアに連れていけなかったんですよね。ディナモ・ザグレブ対レッドスターの試合で暴動が起こって、それに加担したとしてメンバーから外されたわけですが、両者の関係性は悪くなかったんでしょうか?
長束 というより、むしろ良好だったみたいです。オシムさんの葬儀では、FIFAの副事務局長としてボバンが参列していたのも納得です。
──なるほど。森田さんはクリロの活動の中で、オシムさんにお会いしたんですか?
森田 お会いしたのは日本でした。2004年か05年に姉崎のグラウンドで、間瀬さんと一緒のところで初めてお話したんです。その時にクリロの活動についてお話したら、写真のひとつひとつを見ながらニコニコしていましたね。その後、サラエボからクリロを日本に連れてくることになったのがきっかけで、オシムさんのご自宅に何度か伺うようになって、そこから家族ぐるみのお付き合いが始まりました。ちょうどヤドランカさんもお元気だったので、彼女のコンサートにご一緒したこともありましたね。
──ヤドランカさんは、ボスニアの国民的なミュージシャンで、しばらく日本でも活動されていたんですよね。残念ながら2016年に亡くなられましたが。
森田 そうです。僕はオシムさんとは、サッカーで直接つながったわけではありませんが、いちおう「こいつは信頼できる」と思われていたんでしょうね。いきなり「これから食事に行くからお前も来い」って電話がかかってきたりとか、イベントでご一緒した時に怒られたりとか(苦笑)、今にして思えば濃密な時間をご一緒してきました。
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