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【無料公開】『東欧サッカークロニクル』への道 長束恭行(サッカージャーナリスト・通訳)<2/2>

【無料公開】『東欧サッカークロニクル』への道 長束恭行(サッカージャーナリスト・通訳)<1/2>

 

切磋琢磨したルームメイトがオシムの通訳に就任して

──長束さんは来年(2011年)、10年間過ごしたクロアチアを離れることになります。ザグレブでの生活を始めるのは2001年。その間、どんな過ごし方をされていたのでしょうか?

長束 01年までは、バックパッカーとして毎年、向こうに行っていました。1年のうち半年間は仕事をして、5カ月ひきこもり。残り1カ月間を旅行にあてました。クロアチアを中心に東欧、そして西側でもサッカーを観て、それらをHPに書き始めました。当時はライターになる気はまったくなくて、クロアチア、セルビア、ルーマニアなどのマイナーな記事ばかり書いていました。

──旧ユーゴや東欧の良さを心底楽しめた、本当に最後の時代ですよね。

長束 客人に対してオープンに接してくれました。たぶんイタリアやイングランド、ドイツ、スペインでライターを目指したとしても、僕の場合は成功しなかったと思います。クロアチアに行ったからこそ、皆が「お前はサッカーのために来たのか!」と伝説扱い(笑)。サポーター、選手、コーチ、クラブの末端で働く人たちとすぐに仲良くなれました。

──長束さんに「クロアチアで暮らそう」と決意させたものは、何だったんでしょうか?

長束 97年に一度会社を辞めてフリーターみたいな感じになり、だんだん日本に対する自分の進路が狭まれている気がしました。クイズ王だった時代も過去の話となり、自分のアイデンティティを見出せなくなって、クロアチアに気持ちが向かっていったんですね。ただし、最初はすぐに現地での生活を考えていたわけではなくて、2000年に郵便局の公務員試験を受けているんですよ。40歳まで郵便局で働いて、お金を貯めてからクロアチアで暮らそうと。

──しかし幸か不幸か、試験には落ちてしまったと。

長束 おそらく面接で「安定を目指す」とか言ってしまったのが原因だったかと。それで「自分は日本で生きる道はない」と思って、クロアチアに渡りました。最初は貯金を切り崩しながらの生活でしたね。それで2年目の02年に、後にジェフ千葉でオシムの通訳をすることになる、間瀬秀一さんと共同生活をすることになるんです。

──間瀬さんは、当時クロアチアの2部でプレーしていたんですよね。その頃から、向こうの言葉をマスターしていたんでしょうか。

長束 そうですね。その年に現役を引退して、通訳を目指していました。クロアチア語だけでなく、英語とスペイン語もマスターしていて、さらにポルトガル語も勉強していました。彼は努力家ですよ。1日100個の単語を覚えていましたから。毎日のように単語クイズをやったり、文法を教え合ったりして、お互いに切磋琢磨していましたね。その間瀬さんが、オシムの通訳という仕事を勝ち取ったのが03年でした。

──なるほど。切磋琢磨した間柄である長束さんも、そこで発奮したわけですね?

長束 やっぱり「自分も何かやらなければ」と思いますよね。ちょうどその頃、「バスケットボール日本代表監督にクロアチア人が就任するけれども通訳がいない」という話を聞いて、コンタクトをとって通訳になったんです。日本では「パブリセビッチ」と表記されていますが、正確にはジェリコ・パブリチェビッチです。実はこの人、ギリシャのパナシナイコス時代にオシムと親交があったんですよね。

──なるほど、オシムさんもサッカーでパナシナイコスの監督をやっていましたね。それにしても、バスケの日本代表にクロアチア人が指導していたというのは、あまり知られていない話ですよね。

長束 06年に日本で世界選手権が開催されることになっていて、4年計画で日本を強くしようということでクロアチアの指導者が招聘されたんです。でも最初に予定していた通訳が、すぐに入れないということで、僕がその間のつなぎで入ることになったんですね。正直、バスケのことはさっぱりわからなかったので、あまり使い物にならなかったですが(苦笑)。それでも、あの時の経験は間違いなく、今につながっていますね。

──パブリチェビッチという人は、どんな指導者だったんでしょうか?

長束 かなり厳しいタイプでしたね。選手には「歯を食いしばってやれ!」と。ユーゴ系の選手は規律がないのに、指導者はやたら規律だ、根性だと言うのが面白いです(笑)。

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