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【無料公開】きっかけはツエーゲン金沢のボランティア説明会 能登復興応援チャリティーマッチ開催秘話<2/3>

ボランティア説明会と「フットボール・ウィドウ」

──そんな金沢で「Jリーグを目指すクラブを作ろう」という動きが起こり、2006年にツエーゲン金沢が誕生します。小島さんはどういう経緯で、クラブに関わるようになったんでしょうか?

小島 それまでの僕にとって、サッカーの接点は日本代表の試合をTVで観るくらいだったんです。当時、金沢でひとつしかなかったスポーツバーで代表戦を観戦して、ハーフタイムにトイレに入った時にA4の手書き貼り紙が目に入ったんですよ。そこに「金沢にJクラブを作ろう! ボランティア説明会開催」というようなことが書いてあって、ちょっと覗いてみようかなと。

──スポーツバーのトイレに貼り紙って、けっこう訴求力がありますよね(笑)。それで、実際に参加してみてどうでした?

小島 「ボランティア説明会」というからには、20人とか30人くらい集まるだろうと思っていたんです。ところが来てみたら、僕も含めて3人しかいなかったんですよ。説明する側は倍の6人いて、虎視眈々とこっちを見ているんです(笑)。それで「一緒にJクラブを作りましょう! ここに名前を書いて!」って。

──まるで宗教の勧誘ですね(笑)。

小島 そうなんですよ。当時の僕は、青年会議所とかロータリークラブみたいな組織には、一切所属していなかったんです。それで名前を書いて、ツエーゲンとの付き合いが始まりました。そうしたら2006年の1月でしたかね。当時、唯一の常勤だったGMの中村篤次郎さんから「元Jリーガー6人が加入するんですが、金沢のことは右も左もわからないので面倒を見ていただけますか?」と頼まれたんです。

──最初の6人というと、元サンフレッチェ広島の木村龍朗たちですね?

小島 そうです。あとは元愛媛FCの菅原太郎とか、元大分トリニータの吉田智尚とか、ベガルタ仙台から来た大河内英樹といった面々ですね。金沢市民にとって、元Jリーガーが6人もやってくるとなると、もう舞い上がっちゃうわけですよ。「1年でJFL昇格、2年後にはJ2だ!」なんて(笑)、今となっては笑い話ですけれど。

──そうした選手たちに、小島さんは就職先を斡旋したり、食事や飲みに連れて行ったりしていたわけですね?

小島 まあ、僕自身も舞い上がっていたし(苦笑)、地元の優良企業も続々とスポンサーに手を挙げてくれていました。でも、そんなに甘いものではなかったのは周知のとおりです。いくら元Jリーガーを集めたところで、すぐにチームが強くなるわけではない。そりゃあ、そうですよね。Jクラブで契約更新とならず、JFLのさらに下のリーグにプレーの場を求めるというのは、それなりの理由があったわけですから。

──しかも当時は「地獄の北信越」の時代でしたからね。それにしても、当初はボランティアで関わっていた小島さんが、次の年にいきなりフロントスタッフとなったのはなぜでしょう?

小島 ツエーゲン立ち上げから1年で、中村GMが退任したのがきっかけでした。今後のクラブ運営について話し合っていた時、僕は「もはやツエーゲンは金沢の公共財なんですよ!」と主張したんです。そうしたら「じゃあ、小島さんも手伝ってよ」ということになって、サッカーのことを何も知らないのにフロントスタッフになったわけですよ。最初は「ロッカーアウトって何ですか?」っていう状態でした(苦笑)。

──当時の小島さんは40代でした。本業も忙しい中、よくぞ続けられましたね。

小島 当時の手帳を見返すと、もう真っ黒でしたね。めちゃくちゃ忙しくしていたら、当時のテクニカルダイレクターだった越田剛史さんが心配して「小島さんは『フットボール・ウィドウ』って知っている?」と声をかけてくれたんです。「何ですか、それ?『ロックンロール・ウィドウ』なら知っていますけど」って。

──それは山口百恵(笑)!「フットボール・ウィドウ」というのは、直訳すると「サッカー未亡人」。つまり夫がサッカーに夢中になって、妻をほったらかしにしてしまうという意味ですよね。

小島 そのとおりです。試合がある週末は朝から自宅を出て、戻って来るのは夜。平日にもボランティアのミーティングがあるので、当時は本当に自宅にいなかったですよね。ですから嫁さん、すっかりサッカーが大嫌いになって(苦笑)。今となっては、越田さんが心配されていたのが、身に沁みて理解できます。

<3/3に続く>

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