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【無料公開】今だから語れる通訳時代の思い出 追悼鼎談:千田善×長束恭行×森田太郎<2/3>

現役時代を彷彿させたリハビリに取り組む姿

──千田さんと森田さんは、2007年にオシムさんが倒れられて以降、献身的に看病やリハビリに付き添っていました。あらためて、当時のことを伺いたいのですが。

千田 オシムさんの通訳になるタイミングで、大学の講師の仕事はいっさい辞めていましたから、フルタイムでの日本代表の通訳からリハビリの通訳に切り替わりました。それまで、オシムさんの指示を日本語で選手に伝えていたのが、逆にドクターや療法士さんの指示をオシムさんに伝えることになったわけです。「腕を挙げて」とか「足を前に出して」とか。

──長束さんはこの頃、ちょうどクロアチアにいらしたと思うんですが、オシムさんが倒れた時は現地でも報道されていたんでしょうか?

長束 もちろんです。クロアチアの新聞でもしっかり報道されていましたし、旧ユーゴ諸国全体で報じられていたと記憶しています。

──森田さんは当時、小学校の先生だったんですよね?

森田 そうです。善さんと連絡を取り合って、病院にお見舞いに行ったり、アシマさんを励ましたりしながら回復を祈っていました。実は倒れる数日前、一緒に焼き肉を食べていたんですよ、いつものように呼び出されて。あの時は元気に飲み食いしていたので、本当にびっくりしましたね。

──リハビリ中のオシムさんは、どんな感じでしたか?

千田 最初の9日間は眠ったような状態で、意識を取り戻してからリハビリが始まりました。ICU(集中治療室)には45日間いて、その間もベッドの上でできることをやっていたんですけど、本格的なリハビリは専門病院に移ってからでしたね。さすが元フットボーラーという感じでしたよ。「この動作を10回」と言われたら11回やるような感じで、現役時代もストイックにトレーニングしていたんだろうなって思いました。

──幸いにも無事に回復されて、2008年にはJFAハウスで行われたメディア会見では、久しぶりに千田さんが通訳されていましたね。

千田 JFAのアドバイザー就任会見でしたね。代表監督を退任されて以降のオシムさんの役割については、表に出ていない話も多くあるんだけど、現在JFAが掲げている「ジャパンズ・ウェイ」については少なからず関係していると思います。監督が変わっても、技術委員会が変わっても、日本代表の強化の方向性を変えずにやっていこうという考え方は、辿っていくとオシムさんが代表監督になってからの話なんですよね。

──そのあたりの話は、のちほどあらためて伺いたいと思います。長束さんがオシムさんにがっつり取材するようになったのは、オシムさんが日本を離れて以降ですよね?

長束 そうです。書籍の仕事もあったので、2008年から10年にかけて、かなりの頻度でグラーツやサラエボのご自宅に伺いましたね。取材の時もあれば、通訳の時もありました。いろんなメディアがオシムさんの言葉を得たいということで、グラーツにもサラエボにも近い、ザグレブにいた私にお声がかかったという感じでした。

──取材と通訳だと、オシムさんへの向き合い方もかなり違っていたと思いますが。

長束 取材の通訳の時は、けっこう大変でしたね。千田さんや森田さんはよくご存じかと思うんですが、質問に対する答えがとにかく長くて、よく脱線するんですよ。最終的には元の話に戻っていくんですけれど、その場では訳しきれずに持ち帰って書き起こすことはしょっちゅうでした。しかも日本から取材者が来る場合、オシムさんに話が聞けるということで、舞い上がってしまうんです(苦笑)。オシムさんはマイペースなので、そのギャップを埋めるのも大変でした。

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