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宇都宮徹壱ウェブマガジン

基町アパートはEピースをどのように受け入れたのか?「(オールフォー)ヒロシマ・ノート」第02回< 3/3>

 再び、丹下健三による「平和の軸線」に視線を戻してみよう。元安川と本川の中洲にある、平和記念公園。川の対岸にある原爆ドーム。相生通りを渡ると、旧市民球場跡地にオープンした、ひろしまゲートパークがある。

 さらに北に向けて補助線を引くと、エディオンピースウイング広島(Eピース)があり、その先にあるのが「基町アパート」。1960年代から70年代にかけて建設された、当時としては珍しい高密度高層住宅団地と、日本初の「街なかスタジアム」との関係性について、探っていくことにしたい。

 以前にも書いたが、破格ともいえる基町アパートのスケール感について、あらためて触れておきたい。15000人を収容する4500戸の住居に加えて、小学校、幼稚園、保育園、200もの店舗と6つの医院と3つの共同浴場、さらには郵便局や交番や集会場を併せ持つ、まさにひとつの街であった。

 さて、新スタジアム建設の候補地は、2016年の時点で3カ所に絞られていた。すなわち、旧市民球場跡地、みなと公園(宇品)、そして中央公園。これら候補地から、どこに建設するかについて、広島県知事、広島市長、商工会議所会頭、そしてサンフレッチェ広島の久保允誉会長の4者による意見交換会が行われている。

 このうち、旧市民球場跡地を希望していたのは、久保会長のみ。県知事と市長は、宇品案を強く推していた。一方、商工会議所会頭は「みなと公園周辺が開発される契機となれば」ということで、当初は宇品を支持。しかし、港湾関係者から「あんなところにスタジアムが作られたら、深刻な交通渋滞が起こる」と猛反発を受け、態度を決めかねていたという。

 ここで興味深いのは、中央公園が誰からも支持を得ていなかったことだ。そればかりか、いったんはボツになり、旧市民球場跡地と宇品の2択になっていたという。結局、いずれも決着がつかなかったため、妥協案的に中央公園が再浮上。結果、ここに新スタジアムが建設されることとなった。

 それではなぜ、中央公園はいったん候補から消えたのであろうか? その一番の理由が、基町アパートの存在──。より正確に言えば、基町アパートに住む住民への対応である。

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