【サッカー人気1位】【島崎英純】2025Jリーグ第11節/浦和レッズvs横浜F…

宇都宮徹壱ウェブマガジン

【無料公開】書評家つじーの「サッカーファンのための読書案内」第7回 ジュールズ・ボイコフ著『オリンピック秘史: 120年の覇権と利権』

 宇都宮徹壱ウェブマガジン読者の皆様、こんにちは! つじーです。『書評家つじーの「サッカーファンのための読書案内」』第7回になります。いつも読んでいただき本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「パリ五輪」です。今月26日の開幕を控える大会、男女サッカーともに日本の活躍が期待されています。是非「五輪」をさまざまな切り口で考えるきっかけにしてほしいです。お楽しみください!

五輪史上でも「特別な五輪」がはじまる

 2024年のパリ大会は、歴史に踏まえると「特別な」大会だろう。1924年夏季大会からちょうど100年後、再びパリで開催されるということ。そしてパリが近代五輪創設者のピエール・クーベルタンが、開催を熱望した都市だからだ。

 彼は、古代ギリシャで行われていた、運動競技会の復活を目指して近代五輪の開催。その理念の浸透に奔走した。その成果が1896年のアテネ大会である。フランス人である彼は、パリをはじめとした世界中の都市での五輪の開催を望んだ。五輪を「ギリシャの大会」とみなす人々もいながら、彼は現代につながる順繰り開催を実現させる。

 彼の望みは、4年後の1900年にパリ大会が開催されたことで叶ったはずだった。しかしまだメジャーなイベントでなかったオリンピックは「万国博覧会の添え物」として扱われ、彼にとっては不本意な大会となる。そしてリベンジとなったのが1924年のパリ大会。IOC(国際オリンピック委員会)の会長だった彼は、自身の会長退任と半ば引き換えにパリでの開催を支持するように各所に訴えた。そこまでしてでも、パリで五輪を華々しく開きたかったのである。だからパリは五輪の歴史でも特別な都市なのだ。

 本書では、1986年のアテネ大会から2016年リオ大会までの歴史を「政治」を切り口に迫っている。これは著者のジュールズ・ボイコフが、アメリカの政治学者であることが大きい。でも彼は、普通の政治学者とは違う。ボイコフ自身、1992年のバルセロナ大会ではサッカーのアメリカ代表選手として出場。つまりオリンピアンだったのだ(チームメイトにはトッテナム・ホットスパーなどで活躍したGKのブラッド・フリーデルがいる)。元オリンピアンが競技自体ではなく政治に寄り添って五輪を叙述する点が大きな特徴だ。

「政治を持ち込まない」ことは本当にできるのか?

 本書の特徴を読んで疑問に思った人、少し喉がつっかえた人もいるのではないだろうか。五輪の歴史を政治の切り口で掘っていくということは、五輪(すなわちスポーツ)に政治が持ち込まれていることを肯定していることになる。この姿勢は「スポーツに政治を持ち込むな」論者、「純粋にスポーツを楽しもう」論者からすると、アレルギーを起こすものかもしれない。

「スポーツに政治を持ち込むな」の論理に持ち込まれると、五輪のような大会を「中止」するという選択肢は基本排除される。すべての反対意見が「アスリートの皆さんが人生かけて頑張っているのに」という話によって遮断される。2020年の東京五輪もさまざまな意見はあったが、すべて「アスリートは純粋に頑張っている」論の前では、多くが無になった印象を受ける。

 もっとも本書ではその「純粋に頑張っている」とされているアスリートたちが、五輪でどのような「政治的な」振る舞いを行っていたかを明らかにしている。しかも最近のことではない。1906年のセントルイス大会で、イギリス代表として出場したアイルランド人のピーター・オコナーは、開会式のパレードでアイルランドのカラーである緑色のブレザーを着て行進に参加。自身のメダル授与の際にはポールによじ登り、ユニオンジャック旗に代わってアイルランドの緑の大旗を振った。

 これが五輪で初めて、選手が政治的な抗議行動をした事例といわれている。この書評が出る頃には開票が終わっている、フランス国民議会選挙について、EURO真っ最中のキリアン・エムバペが積極的に発言をしている。が、こういう話は今に始まったものでなく、118年前からあることなのだ。裏を返せば、いろんなことを言われながらもアスリートの政治的な振る舞いは、100年以上の歴史を持っている。

 今回のパリ大会では、ロシアとの戦争中であるウクライナの代表は、何かしらの政治的な意図をもった振る舞いを行う可能性は非常に高いだろう。そうなった際に「政治を持ち込むな」と、誰が声を張り上げて言うのか。あるいは誰かによる「持ち込んでいい政治」と「持ち込んで欲しくない政治」には、どのような違いがあるのか。そういう点にも目を凝らしていきたい。

現代の五輪を彩る「祝賀資本主義」

「政治」を切り口に五輪の歴史を追った著者が、非常に力を込めて書いているのが21世紀、つまり現代の五輪だ。彼は「祝賀資本主義」の形態を五輪が採っていると指摘している。

祝賀資本主義というのは、民間企業に利益をもたらす一方で納税者にリスクを負わせる、偏った公民連携に特徴づけられる政治経済的構造のことである。メディアがもてはやす超商業主義的なスペクタクルの開催を理由に、通常の政治のルールは一時停止される。(ジュールズ・ボイコフ・著『オリンピック秘史: 120年の覇権と利権』p193)

 民間企業の手によって、五輪が行き過ぎた商業化が著しい。このような文句を聞くことがあるが、実際のところ民間側も政府が大量の経費を拠出、補填するからこそ五輪に安心して力を注げている。大会実施に向けて特別な持ち出しが開催国政府に必要とされるため、必然的に納税者への負担は大きくなりやすい。

 祝賀資本主義のもうひとつの特徴であり、著者が一番強調したかったであろう点は「スポーツのスペクタクルの保護」を理由に、国内の警備や監視が非常に強化されることだ。大きく警戒されているのはテロリズム。2001年のアメリカ同時多発テロを目の当たりにした世界にとって、これは最も防がなくてはいけない。問題は役所の論理だと、テロリズムも抗議活動も組織犯罪も自然災害も、すべて同じ「リスク」として扱われることだ。

 仮に五輪への抗議や政治的な活動をできるとなっても、特定の場所で政府から申請して許可を得た上で行わせるケースもある。これを逆手に取ったのが中国。2008年の北京大会では申請を行った人々を、後日政治犯として拘留していった。ちなみにIOCは五輪が中国の人権と社会問題の改善に、大いに役立つと本気で信じていたそうだ。結果、中国政府にとって「問題ある人々」の排除に役立ったようだが。

 パリでも都市再開発や首都美化を理由に労働者や移民を移送するニュースが流れている。われわれがなぜ、五輪を対岸から今のように楽しめるか。それはあらゆるリスクを排除し、そのリスク選択への異も排除してスペクタクルを維持してることに他ならない。

 また、今大会は「環境にやさしい五輪」として、環境問題に配慮した運営を志向している。その一環として話題になったのが、選手村にエアコンを設置しないことだ(もっともこの方針に反発したアメリカや日本などは、独自にエアコンを設置する予定)。だが、本書を読めば「史上最も環境に優しい大会」という主張は、IOCが自らの方針に持続可能な活動を取り入れた、1999年のアジェンダ21の採択から毎大会声高に叫ばれている常套句だとわかる。

 僕は五輪に対する疑念の目線と、選手を応援することは両立すると考えている。五輪が政治と共にあることを認めるのと、選手の頑張りを見届けるのは二者択一ではないのだ。どのような大会になるか、26日からしっかり見届けていきたい。

【本書のリンク】
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784152097415

【次に読むならこの一冊】福井憲彦・著物語 パリの歴史』(中央公論新社)
オリンピックは、スポーツだけではなく都市を楽しむことも醍醐味だ。「花の都」とよばれるパリが決して一筋縄ではいかない歴史を持つことがわかる。中公新書の『物語○○の歴史』シリーズは鉄板だ。
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2021/08/102658.html

【プロフィール】つじー
サッカーが好きすぎる書評家。北海道コンサドーレ札幌とアダナ・デミルスポルを応援している。自身のnoteに書評やサッカーの話題などを書き、現在コンサドーレの歴史をつづった「ぼくのコンサ史」を執筆中。ラジオ好きで自らポッドキャストを2本配信している。
◎note:https://note.com/nega9clecle
◎X(Twitter):https://twitter.com/nega9_clecle

<この稿、了>

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ