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【無料公開】幻の1940年、追憶の1964年、そして混沌の2020年 最年長サッカージャーナリスト、賀川浩が語る3つの東京五輪

【2024年12月6日付記】現役最年長のサッカージャーナリスト、賀川浩さんが2024年12月5日、99歳で亡くなられました。当WMでは賀川さんへの追悼の意を込めて、最後にご登場いただいた2021年6月9日のコラムを無料公開します。

「プロ野球や大相撲を除けば、スポーツ新聞記者の目標は五輪取材でした。五輪に居合わせるということは、われわれ記者にとって非常に大きな目標。ですから常に、五輪についての歴史や、それに関わる世界の情勢を注視していましたね。記者生活そのものが五輪だった。そう言っても過言ではないですね」

 Zoom画面の向こう側でそう語るのは、現役最年長のサッカージャーリストとして知られる賀川浩さん。1924年(大正13年)生まれの御年96歳である。元日本代表の賀川太郎を兄に持ち、ご自身もサッカーの名門として知られる神戸一中(現・兵庫県立神戸高等学校)で全国制覇も経験されている。2014年にブラジルで開催されたワールドカップでは、大会最高齢の記者として『FIFA.com』の取材を受け、翌年1月にはFIFA会長賞を受賞された。

 賀川さんといえば、これまで何度もワールドカップに関する著述を拝読してきた。けれども、五輪に関するものは意外と限られている。特攻隊員として終戦を迎えた賀川さんは、1952年に27歳で産経新聞に入社。そして40歳で迎えた1964年の東京五輪では、閉会式の模様を紙面で伝えている。賀川さんは1992年に定年退職しているが、五輪の取材は57年前の東京五輪が最初で最後だった。

「大会期間中は、内勤のデスクということで東京にいました。それでも、サッカーの試合だけは抜け目なく見ていたので、みんなから笑われましたね(苦笑)。日本はアルゼンチンに勝って、次の相手がガーナだったんだけど、記者席で僕の隣に座っていたのが巨人の長嶋(茂雄)さんと王(貞治)さんだったんですね(参照)。ふたりとも報知新聞の記者証を持っていました。当時のサッカーの扱いは『長嶋と王も来た』ということで、初めてニュースになったんですよ。今では想像もできないでしょうけれど」

 この東京五輪で日本は、グループリーグを1勝1敗(同組のイタリアは棄権)で突破したものの、準々決勝でチェコスロバキアに04で敗戦。そしてベスト4に残らなかった、日本、ユーゴスラビア、ルーマニア、ガーナの4チームが「大阪大会」と呼ばれる非公式敗者戦に参加している。この大阪大会を企画したのも、実は賀川さんだった。

「日本で五輪をやるのに、東京だけというのはもったいない。そこでJFAと大会組織委員会に意見書を出して、サッカー競技の5位・6位決定戦を関西でやりましょうと提案させていただいたんですね。(決定後に)FIFAのスタンリー・ラウス会長が、わざわざ会場の長居まで視察に訪れて、記者会見もやりましたよ。関西のスポーツ界にしてみれば、この大阪大会はささやかなプライドになっているわけですね」

 この大阪大会はノックアウト形式で、1回戦を勝利した2チームが、5位・6位決定戦を戦うことになっていた。日本は長居競技場でユーゴと対戦し、16で敗退。余談ながら、この試合は川淵三郎とイビチャ・オシムが同じピッチに立っていた(オシムは2ゴールを挙げている)。どんな試合だったのか、ぜひとも知りたいところ。ところが賀川さん、実はこの試合をご覧になっていないという。

「その日は、東京のデスクにいましたからね。自分で計画しながら、見ることができなかったんですわ。後日、大阪の記者に説明してもらおうと思ったんですが、これが要領を得なくて(笑)。まあ、それでもサッカーのためにやったことですから」

 さて今回、賀川さんに取材を申し込んだのは、1964年以外の東京五輪についてもお話を伺いたかったからだ。大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』をご覧になった方ならご存じだろう。日中戦争の悪化により、日本政府が開催権を返上して幻に終わった、1940年の東京五輪である。

「前年にノモンハン事件が起こって、中国での戦争も拡大の一途をたどる中、『これは五輪どころではない』というのが実際のところでしたね。次の年は、すべてのスポーツ大会が中止となる中、明治神宮大会という中学の全国大会だけが開催されて、神戸一中の5年生だった僕も出場しとったんです。決勝の相手は、朝鮮地域から出場していた普成中学。結局、両校優勝となるんですが、日本在住の朝鮮の人たちの応援がすごかったですね。あまりの熱狂ぶりに『これが国際試合というものか』と感心して見ていました」

 そして12月8日、ついに日米開戦。自宅で大本営発表のラジオを聞いた賀川さんは、神戸大学の予科にいた2歳上のお兄さんが戻ってくると「俺たちも戦地に行くことになるのかな」と言葉を交わしたそうだ。幸い賀川さんもお兄さんも、無事に終戦を迎えることとなったが(兄の太郎さんは1990年に67歳で死去)、戦地から戻らなかったサッカー関係者も少なくない。開催権を返上してから、ようやく24年後に実現した東京五輪。賀川さんをはじめ、当時のスポーツ関係者の思いは、万感ひとしおだったことだろう。

「五輪というものはね、陸上と水泳以外、ほとんどマイナーな競技なんですよ。前の東京の時は、サッカーもそうでした。そういう見たこともない競技を、世界中から集まってきた選手たちが競い合う。それを日本中の国民が関心を寄せたというのは、とても大きなことだったと思いますね。五輪はいったんやると決めたことなら、開催国をはじめとして膨大な準備を積み重ねているわけですから、途中で簡単に投げ出すわけにはいきません。そもそも競技を普及させていくのが、競技団体の使命ですからね」

 五輪開催の意義について、そう語る賀川さん。先のコラムにも書いたとおり、今回の東京五輪について、私は今も否定的な見解を崩していない(たとえ、このまま開催されたとしても、だ)。しかし、ここで繰り返すことは控えよう。最後に2020年の東京五輪について、賀川さんの思いをお伝えして、本稿を了としたい。

「開催の手順が、どこまで進んでいるのかはわかりません。それでも関係者にしてみれば、ここまで準備してきたものを手放すつもりはないでしょう。ですから、五輪ができるかどうかわからない状況なら、できるほうに賭けようとするのも当然の話だと思いますよ。それに日本人の準備の良さ、スポーツ関係者の優秀さを考えれば、そんなに心配する必要もないでしょう。受け取る側も、純粋にスポーツを楽しもうという気持ちがあれば、今回の東京五輪は成功すると思っています」

<この稿、了>

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