東日本大震災から14年のサッカー界の風景 ベガルタ仙台にすべてを託しすぎた2011年
今年も「3.11」を思う季節となった。
今週火曜日の14時46分は、震災の犠牲者に心の中で黙祷を捧げたものの、SNSでの書き込みは控えることにした。その代わり今週のWMコラムで、この14年の「重み」について、自分なりの考察を試みることにしたい。
まずは震災当日の思い出から。その日は、池袋シネマ・ロサで翌日から上映される、映画『クラシコ』の上映に合わせての写真展示について、配給元と新宿で打ち合わせをすることになった。
激しい揺れを感じたのは、地下鉄の都営新宿線に乗車していたタイミング。曙橋で強制的に降ろされ、徒歩で打ち合わせ先に向かった。この時はまだ、東北で何が起こっているのかも知らず、打ち合わせを終えてから新宿駅へ。まだ空が明るいのに、駅のシャッターがガラガラと閉まるのを見て、ようやく事態の深刻さを悟った。
その後、帰宅が難しくなりかけたところで、中野在住の友人宅でお世話になることに。ようやくTVで、大津波の映像と原発事故の報道を知り、以後は長く不安な夜を過ごすこととなった。
個人的には3月11日よりも、2カ月後の5月11日からの1週間のほうが、鮮烈な記憶として残っている。福島、宮城、岩手の被災地を取材で巡る機会を得ることができたからだ。
最初は仙台を起点に、高速バスとレンタカーで被災地を回り、さらに独自の被災地支援を行っていた加藤久さんと合流。4WDの助手席に乗せていただき、石巻、女川、松島を巡ることができた。震災からわずか2カ月後ということもあり、深刻な爪痕に何度も息を呑んだことを思い出す。
ちょうどこの頃、サッカー界で大きな注目を集めていたのが「被災地の希望の星」ベガルタ仙台であった。J1が再開した4月23日、伝説的な川崎フロンターレとのアウェイ戦に2−1で逆転勝利。清水エスパルスに0−1で敗れるまで、12試合無敗という偉大な記録を打ち立てることとなった。
当時の仙台は「負けなかったから」ではなく「被災地のクラブだったから」メディアの注目を集めていた。つまり、結果は後からついてきたのである。ここで若い世代の読者から、こんな疑問が浮かぶことだろう。仙台の他に、被災地のクラブはなかったのだろうか──。
意外に思われるかもしれないが、2011年当時の東北のJクラブは、他にモンテディオ山形しかなかった。山形の震災での犠牲者が限られていたこともあり(関連死を含めて3名)、自ずとメディアの眼差しは仙台に向かうこととなる。そして彼らは6月26日まで、ずっと無敗街道を突っ走った。
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