もしも「サッカー」じゃない人生があったなら 第08回:1994年のJFL(ジャパンフットボールリーグ)
■ソニー仙台の最後のアウェイ戦を観ながらを想う
JFL所属、横河武蔵野FCがホームゲームを行う武蔵野陸上競技場は、わが家から最も近いスタジアムである。第29節が開催された11月16日、武蔵野のホーム最終節を取材した。この時点で最下位に沈む武蔵野も気になっていたが、この日のお目当てはむしろ対戦相手のほうだった。
ソニー仙台FC──。1968年に宮城県多賀城市にある、ソニー株式会社仙台テクノロジーセンターのサッカー同好会として発足。長く県リーグで活動していたが、1995年に東北リーグに昇格、2年後の97年には地域決勝で優勝し、当時のJFL昇格を果たしている。
以来、27シーズンにわたり全国リーグを戦い続けてきた、ソニー仙台。ある意味「いつもそこに居てくれる」存在だった。それゆえ、9月27日に今季いっぱいの活動を終了することが発表された時は、本当に驚いた。そして、なんとも言えぬ空虚感を覚えることとなった。
すぐに日程を確認すると、11月16日にムサ陸での試合があることを確認。この日は絶対に、ソニー仙台のプレーを目に焼けようと心に誓った。そう思ったのは私だけではなかったようで、この日のムサ陸は今季初めて4桁(1341人)の観客を集めることとなった。
さて、ソニー仙台の履歴を語るにあたり、先ほど《地域決勝で優勝し、当時のJFL昇格を果たしている。》と書いた。「当時のJFL」とは、ジャパンフットボールリーグのこと。現在のJFL(日本フットボール)とは異なるため、以後は「旧JFL」と表記する。
旧JFLは、Jリーグ開幕前年の1992年から、日本がワールドカップ初出場を果たした98年まで、わずか7シーズンしか存在しなかったリーグ。ソニー仙台は、その最後のシーズンに参戦している。今月は、この旧JFLの思い出について、語ることとしたい。
■30年前のJFLは「Jリーグの受け皿」だった
「ウツノミヤ! 柏に行ってくれ。オレは行けないから、現場の仕切りはお前な。囲みの会見だから問題ないだろ?」
ディレクターのシゲさんから指令を受けたのは、1994年の6月のことであった。ダイヤモンドサッカーの担当AD(アシスタントディレクター)となって1カ月。ようやく私も現場の仕切りを任せてもらえるようになっていた。この日の現場は、柏レイソルに移籍する大物選手の囲み取材である。
当時の柏は、旧JFLに所属。前身の日立製作所サッカー部は、Jリーグへの参加を表明していたが、なぜかオリジナル10から漏れてしまう。それでもJリーグ準会員には承認され、1992年から2部リーグに相当する旧JFLからJリーグを目指すこととなった。
初年度の1992年は2位となったものの、このシーズンの昇格はなし。つづく1993年は昇格枠が上位2チームとなり、1位の湘南ベルマーレと2位のジュビロ磐田がJリーグ入りを果たしたものの、5位に終わった柏は涙をのむこととなった。
柏には当時、元ブラジル代表のカレカがいた。ナポリでマラドーナと共にプレーした男が、日本の2部でプレーしていたことに「時代」を感じてしまう。しかし、1年での昇格はならず。そこでクラブは、戸塚哲也と柱谷幸一という、2人の元日本代表を期限付き移籍で獲得することとなった。
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