もしも「サッカー」じゃない人生があったなら 第05回:1994年のワールドカップ
■「もうすぐワールドカップが開幕するのに」
2024年はEURO(欧州選手権)とパリ五輪&パラリンピックが開催された年。その30年前の1994年といえば、FIFAワールドカップがアメリカで開催された年であった。
1966年生まれの私は、4年に一度のワールドカップ・イヤーに誕生したことに、ある種の誇らしさを感じていた。1966年はイングランド大会、70年はメキシコ大会、74年は西ドイツ大会、78年はアルゼンチン大会、82年はスペイン大会、86年は再びメキシコ大会、そして90年はイタリア大会──。
私の世代だと、初めてワールドカップを意識したのは、スペイン大会かメキシコ大会、少し遅れてイタリア大会であろうか。だが、サッカー少年だった私にとり、「やるサッカー」と「見るサッカー」はまったくの別物。よって、ジーコやプラティニやマラドーナのプレーに、リアルタイムで熱狂することもなかった。
だが、1994年のアメリカ大会は違った。なぜなら、この年から私は「サッカーが仕事」になったからだ。担当していたダイヤモンドサッカーでも、大会期間中の試合をダイジェストで紹介するコーナーがあったので、アメリカ大会は私にとって「初めて開幕から意識した」ワールドカップとなった。
アメリカ大会の開幕は、6月17日の金曜日。日本では18日の土曜日で、ダイヤモンド班にとっては日曜日のOAに向けて、ひたすら忙しいタイミングであった。地道にテロップの確認作業をしている時、ディレクターのシゲタさんが、憤懣やる方ない様子でぼやく。
「もうすぐワールドカップが開幕するのに、俺たち何やっているんだろうな」
サッカーの仕事を始めたとはいえ、当時の私にとってワールドカップとは、まだまだ遠い世界でのイベントでしかなかった。
■東欧の天才たちが輝いたアメリカ大会
30年前のワールドカップは、今とは随分と違った大会であった。思いつくままに、いくつか興味深い相違点を挙げてみよう。
出場国数は24。2026年大会は48になるので、その半分だった。試合数は52試合で、開催都市は9。巨大なアメフト会場が活用されていたので、1試合の平均入場者数は6万8,991人という、とんでもない数字だった。ちなみに最多入場者数は、パサデナのローズ・ボウルで行われた決勝(ブラジルvsイタリア)で9万4,194人である。
レギュレーションやルールも、今とは随分と異なる。出場メンバーは22人。選手交代は、GKを含めて3人だった。アディショナルタイム(当時は「ロスタイム」)の表示もなかったので、この大会では第4の審判もいなかった。勝利チームに勝ち点3が与えられたのは、この大会から。ただし「ドーハの悲劇」を含む大陸予選では、勝利チームの勝ち点は2であった。
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