【無料公開】ゴール裏の活動は単なる「自己満足」か? 相良純真(URAWA BOYS創設者)✕ロック総統<2/4>
■浦和のゴール裏から離れた理由
──相良さんは1997年にURAWA BOYSを立ち上げて、こちらのお店を開店した2002年に第一線を退いたんでしょうか?
相良 いえ。お店を出して、しばらくは続けていたので、引退は2003年の5月ですね。2002年のワールドカップ前に開店を間に合わせたんですが、当時は同じ浦和でも今とは違う場所でした。
──引退したのは、お店の経営に専念するというのもあったでしょうけど、他にも理由があったんですか?
相良 おっしゃるとおり、従業員の生活を保証しなければならないというのは確かにありました。その一方で2002年から03年にかけて、ゴール裏がぐちゃぐちゃになったというのもありましたね。まだ駒場を使っていた時期でしたが、駒場に西側と東側による抗争というのがあったんです。
──それは報道されたり、Jリーグで問題になったりとかにはならなかったんですか?
相良 Jリーグまでは上がっていないと思います。あの当時、各クラブのことは各クラブで(対応する)というのがあったんで。
総統 それ、浦和に限った話じゃないです。鹿島でも表に出ていない話はたくさんありますから(苦笑)。
相良 それで当時、RED VOLTAGEの2階にクラブのオフィスがあって、ウチの店も近かったから、毎日のように呼び出されていたんですね。だから仕事にならない。
──問題が起こるたびに相良さんが呼びされていたんですか?
相良 問題が、というよりも「今はこれこれ、こういうことになっているから」という方針を僕に把握させるんですよ。クラブとして対処しきれない部分は、そっちで何とかしてほしいということなんでしょうね。もちろん、僕らとしても「それは受け入れ難いです」ということもありましたが、ゴール裏内部での揉め事に関しては、僕が話して納得してもらうということはよくありました。
──それにしても相良さんと吉沢さんが出会ったのが92年じゃないですか。それから10年の間に浦和のサポーターがどんどん増えていって、そのスピードが急激すぎたことにより組織内のひずみみたいなものがあったということでしょうか。
相良 前提として、1995年に吉沢がクレイジー・コールズを解散して、浦和の応援がいったんリセットされてしまったんですね。それが大きかったと思います。ただし当時はネットなんてなかったから、事件後にスタジアムで初めて、解散したことを知ったんですよ。結局、吉沢はゴール裏から離れることになるんですが、試合は続く以上、僕らも応援を続ける必要がある。
だから残党を集めて応援していたら、吉沢にくっついて離れていった連中から妨害を受けるようになりました。とはいえ、僕らを支持してくれる人もいたので、97年にURAWA BOYSという新たな団体を作って、僕が初代リーダーになったんですけど。それまでの間は「CC(クレイジー・コールズ)の残党」とか「ゴール裏のやつら」とか呼ばれていましたね(苦笑)。
総統 「CCの残党」って、僕も聞いたことがあります。
相良 「貯金を食い潰しているヤツら」とも言われていました(苦笑)。