宇都宮徹壱ウェブマガジン

【無料公開】書評家つじーの「サッカーファンのための読書案内」第8回 堀川惠子著『暁の宇品』

 宇都宮徹壱ウェブマガジン読者の皆様、こんにちは! つじーです。『書評家つじーの「サッカーファンのための読書案内」』も第8回になります。いつも読んでいただき本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「港と戦争」です。おりしも今月は終戦の月。かつて日本が戦った戦争を記憶する。その記憶がサッカーといかなる関係があるのか。この書評で確かめてみてください。

ナントカナラナイ戦争で無力化された悲劇の港

 毎年当たり前のようにわれわれに訪れる8月は、日本で生きるのならば忘れてはいけない記憶の月だ。15日の終戦、9日から9月初旬にかけて行われた日ソ戦争、9日の長崎への原爆投下、そして6日の広島への原爆投下。

 なぜ原爆が投下されたか。この大きな疑問の中には「なぜ広島だったのか」という問いが含まれている。「日本陸軍の海上輸送」という一風変わった切り口でこの問いに迫ったのが本書だ。

 主役は陸軍船舶司令部、その司令官・参謀たちと宇品港(現・広島港の一部)。軍隊が日本列島から海をこえて大陸へ進出するためには船が必要だ。しかし海軍は、陸軍の輸送には一切関わらない。陸軍は自前で輸送船を作るなり、民間の船舶を借りるなりして人員を運ばなくてはならない。それを一手に担うのが、この司令部というわけだ。そしてその司令部があったのが広島県の軍港・宇品。日本陸軍最大の輸送基地である。

 日清・日露戦争の時代、軍はどうやって朝鮮や中国に兵や物資を輸送するかが、大きな問題意識だった。輸送の指揮を執ったのが寺内正毅や上原勇作といった、後に陸軍の重鎮になるレベルの人材だったのは、その力の入れようを表している。

 しかし月日を重ねると、軍は次第に「ナントカナルの精神」にむしばまれていく。輸送はナントカナルものであり、どんどん軽視される。

 主人公のひとりであり「船舶の神」と称された田尻昌次は、今のままでは大陸への輸送に船舶が足らず「ナントカナラナイ」ことを陸軍上層部に直訴。その結果、司令官を罷免された。

 アメリカと戦争を行うと決定するために、帳尻を合わせたような輸送計画に異議を唱えられるものは誰もおらず、輸送船はことごとくアメリカ軍に狙われ多くの人々が死んだ。

 海に囲まれた日本にとって、戦争を続けるためには輸送がすべてだった。だからアメリカは、海上封鎖作戦でことごとく輸送船を狙い、日本軍を無力化しようとした。そして、その輸送船たちの基地こそ宇品だった。だからアメリカは、広島を標的にしたのである──。

 ちょっと待ってほしい。確かに広島に原爆は落ちた。しかし肝心の宇品は、まったく被害を受けていないではないか。

 アメリカの海上封鎖によって、日本軍がほぼ死に体となったあの時、宇品を攻撃せずとも日本の輸送網は崩壊していた。宇品に原爆を落とす価値はなくなったのだ。

 しかしアメリカは、この大プロジェクトをどうしても世界に知らしめねばならなかった。それは、この戦争が終わった後の覇権を握るため、そして今後の核使用も考えると、有益なデータが取れる都市に落とすのが望ましい。こうして広島に原爆が落とされた。

 原爆投下は、その行為そのものが言葉で言い表しがたい痛ましいものだ。そして本書は、その投下される過程にもまた、無数の悲惨な悲劇が積み重なっていることを教えてくれる。

経験と環境は人間を縛っていく

「船舶の神」こと田尻昌次、「最後の司令官」こと佐伯文郎。対称的な出自を持つ2人の司令官に、本書は焦点をあてている。田尻は困窮生活を抜け出すために教員から軍人に転身した。軍以外の世界を知っているという点では、民間経験者といえるだろう。佐伯は幼少期から陸軍学校で学び、エリートコースを歩み続けた純正培養軍人だ。

 軍事史研究家の原剛さんは、純粋な軍人教育だけほどこされた軍人と、世間で色んな苦労をしてから軍人になった人では「陸軍のためにどう最善を尽くすか」という考え方の土台が違うと、本書で語っている。

 田尻が陸軍上層部に直訴し、結果罷免されたのは、その土台の違いにあった。幼少期から軍人教育を受けた人間ならば、田尻のような行動は採らなかったかもしれない。それが軍という官僚組織で生きる術だからだ。

 反対に、純正培養軍人の佐伯に関する読みどころは、原爆投下での対応だ。彼は、無傷であった陸軍船舶司令部を総動員して、広島の市街地に突入。消火と復旧活動の指揮を執った。その判断の迅速さと的確さは、非常時とは思えないものだ。この佐伯の行動の原点が、陸軍参謀になってからの最初の仕事が関東大震災の対応だったことを、本書は突き止めている。

 田尻と佐伯。それぞれ己のなすべき行動に走らせたのは、原点となる自らの人生経験であった。人間は良くも悪くも、経験と環境に縛られる。では経験を積めばいいかというと、確かにそうなのだが際限はない。積んでも積んでも、経験は足りない。その足りない経験を補完するひとつが、人生や出来事を追体験できる読書なのかもしれない。

宇品と似島をめぐる日本サッカーの物語

 本書に、サッカーの話題はひとつも出てこない。しかしこの宇品の存在が、めぐりめぐって今の日本サッカーにつながっている。そんな数奇な物語を最後に紹介する。

 広島には「サッカーの島」と称されてもおかしくない土地がある。宇品からすぐ近くにある似島(にのしま)だ。

 第1次世界大戦時、この島には捕虜収容所があり、ドイツ兵などが収容されていた。彼らは収容所内でサッカーチームを結成し、広島の師範学校などと試合を行った。これが「日本初の国際交流試合」と言われている。

 ドイツ兵たちの圧倒的な技術を見せつけられた、広島のサッカー人たちは交流を通して彼らに教えを乞い、自らのものにしていったそうだ。広島はサッカーが盛んで、太平洋戦争後の日本代表には、広島県出身者が多く選ばれている。その源流のひとつが、捕虜との交流にあったのかもしれない。

 ちなみに捕虜のひとりが、ドイツに帰還して設立したクラブ「SVヴァンヴァイル」からは、浦和レッズの選手・監督として活躍した、元ドイツ代表のギド・ブッフバルトが育っている。

 注目してほしいのは、なぜ似島に捕虜収容所があったのかということだ。ここで宇品の存在が鍵になる。日清・日露戦争で陸軍の部隊は、宇品から朝鮮半島へ向かい、戦いの後は宇品を経て日本の大地を踏んだ。

 ここで、問題になったのが伝染病。大陸から伝染病を持ち込んで、日本に流行させるわけにはいかない。そこで近隣の似島に、多額の費用をかけて検疫所が作られた。検疫されるのは日本兵だけではない。相手国の捕虜も一緒だ。そのため検疫所と一緒に、捕虜収容所も併設された。つまり似島の捕虜収容所は、宇品が輸送基地であったからこそ誕生したものなのである。

 似島とサッカーの物語は、ここで終わらない。太平洋戦争後、検疫所の敷地内に、原爆投下で家族を失った戦争孤児を保護収容する施設が作られた。今も存在する似島学園の始まりである。

 学園の創設者には、2人の息子がいた。兄弟は小さい頃からサッカーに熱中し、兄はマネージャーとして、弟は選手として、三菱重工サッカー部を支えることになる。

 社業のかたわら兄は、リーグのプロ化や女子サッカーの環境改善に取り組んだ。Jリーグ創設における実務面で、多くを取り仕切った人物として木木之本興三が有名だが、兄もまたJリーグ創設の功労者の一人だ。

 弟は現役引退後、日本代表監督に就任し、当時「最もワールドカップに近づいた」日本代表を作り上げた。そしてJリーグ創設時には、浦和レッズの監督に就任する。監督としての仕事だけではなく、いかに浦和という地域にクラブを密着させるかに心を砕いた、その姿からは「浦和レッズの父」と称した人もいたそうだ。

 兄の名前は健兒、弟の名前は孝慈。日本サッカー史に名を残す森兄弟である。彼らは似島で育ち、成長して今の日本サッカー界の礎を築いた。似島と日本サッカーを結ぶ縁は、宇品につながっている。まさに本書は、戦争と平和、そしてサッカーに思いをはせる一冊になり得るだろう。

【本書のリンク】
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000354870

【次に読むならこの一冊】稲吉晃・著港町巡礼』(吉田書店)
15の港町の近代史から日本の様々な側面を切り取っていく。この書評の舞台の広島はもちろん、横浜や神戸といったサッカーにもゆかりのある港町も収録されている。
https://yoshidapublishing.moon.bindcloud.jp/pg4531549.html

【プロフィール】つじー
サッカーが好きすぎる書評家。北海道コンサドーレ札幌とアダナ・デミルスポルを応援している。自身のnoteに書評やサッカーの話題などを書き、現在コンサドーレの歴史をつづった「ぼくのコンサ史」を執筆中。ラジオ好きで自らポッドキャストも配信している。
◎note:https://note.com/nega9clecle
◎X(Twitter):https://twitter.com/nega9_clecle

<この稿、了>

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ