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「フロント業務一筋」を決意させたソリさんの偉大さ 3代目社長、小澤修一が重視する「山雅らしさ」<2/3>

「チーム自体はいい方向に向かっている」といえる理由 3代目社長、小澤修一が重視する「山雅らしさ」<1/3>

引退後は指導者を目指してみたものの

──ここから現役引退後のキャリアを振り返っていただきたいと思います。2011年に柿本倫明さんと一緒に引退試合が開催されました。

小澤 ありがたかったですが、カキさんのバーターで「ついでにやってやるか」くらいの感じだったと思います(笑)。とはいえ、誰もが引退試合をしてもらえるわけではないですからね。僕の場合、Jリーグは経験できませんでしたが、いろいろ貴重な経験をさせていただきました。地域リーグやJFLでも、何千人もの観客の前でプレーさせてもらいましたし、あれだけ豪華なメンバーを集めた引退試合で送り出していただきましたし。

──北信越リーグ時代の2009年には、天皇杯で浦和レッズに勝ったし、地域決勝では1万人入った中でJFL昇格を決めることができました。なかなかできる経験じゃないですよね。

小澤 そうですよね。普通のJリーガーよりも、いい経験をさせてもらったと思っています。負け惜しみかもしれないけど(笑)。それでも山雅には、いつか恩返しをしたいとは思っていました。

──JFLだった松本山雅で現役を終えて、クラブに残ってセカンドキャリを積み上げるということは、当時はどれくらいリアルに考えていたんでしょうか?

小澤 まったく考えていなかったです。まずはサラリーマンになろうと思って、EPSONに就職することも決まっていたんです。そのまま地元の神奈川に戻って、東京の営業所で働こうと思っていたら、クラブから「アカデミーで子供たちを指導してほしい」というオファーをいただいて。正直、悩みましたけれど、最後はやっぱり「恩返し」でしたね。

──とはいえ、そんなに長く続けるつもりはなかったのでは?

小澤 そうですね。結局、2年やったんですが、2年目は広報との兼任でした。あの時は死ぬほど忙しくて、ほとんど休みなしで働いていましたね。家族には迷惑をかけたと思いますが、ちょうど広報を兼任した年、ソリさんが来たんですよね。それでソリさんには「将来的には指導者の勉強をしたいので、ミーティングに同席させてください」とお願いしたんです。

──当時は指導者になりたかったんですか?

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