もしも「サッカー」じゃない人生があったなら 第04回:1994年の鹿島アントラーズ
■躍動するチャヴリッチに新時代の鹿島を見る
GW(ゴールデンウィーク)只中の5月3日、今季初めてカシマサッカースタジアムを訪れた。カードは、鹿島アントラーズvs湘南ベルマーレ。これまで数々の名勝負が繰り返されているだけに、個人的に楽しみにしていた顔合わせであった。
鹿島のホームゲーム取材は、いつもプレッシャーを感じながら現地に向かうことになる。車に乗らない私にとり、東京駅とスタジアムを結ぶ高速バスは、まさに移動の生命線。以前は帰路が心配の種であったが、最近は往路でキックオフに間に合うかどうかが不安に感じられるようになっていた。
2年前の天皇杯準決勝では、キックオフに間に合わず、前半はメディアルーム待機となってしまった。その時の反省を活かすべく、この日はキックオフ3時間前にバスに乗車。ところが想定以上の大渋滞に巻き込まれ、またしても間に合わず。前半はメディアルームでのDAZN観戦と相成った。
試合撮影が許されたのは、0−0で迎えた後半から。この日のお目当て、チャヴリッチも後半からの登場で、1ゴール1アシストの活躍ぶりをカメラに収めることができた(試合は3-1で鹿島の勝利)。
このチャヴリッチ、クロアチアのヴコヴァルに生まれ、ユース時代にセルビア代表、長じてスロバキア代表も招集されている。何とも複雑な履歴の持ち主だが、設立以来ずっとブラジル路線が続いていた鹿島にとっては、初めての東欧出身プレーヤーとなる。
新監督のランコ・ポポヴィッチが、コソボ出身のセルビア人ということもあって、クラブが東欧路線に切り替わるのは自然な流れだったのかもしれない。しかしそれ以上に、新しく生まれ変わろうとする、クラブの強い意思が感じられる一戦であった。
■Jリーグ開幕前夜に鹿島町を訪れた理由
初めてカシマサッカースタジアムを訪れたのは、私が『ダイヤモンドサッカー』を担当していた1994年。その日がJリーグデビューとなる、世界的なスター選手のプレーを映像に収めることが目的だった(ただし撮影するのはキャメラマン。当時の私はしがないADだった)。
本題に入る前に、少し寄り道することにしたい。実はこの2年前、1992年の5月に当時の鹿島町を訪れている。最初に就職した映像館時代、鹿島運輸という住友金属工業の物流子会社の採用ビデオ制作に関わった。何もない企業城下町に降り立つと、奇妙な横断幕が私の視界に飛び込んでくる。
「Jリーグ・鹿島アントラーズを応援しよう!」──。確か、そんな内容だったと記憶している。
Jリーグが翌年に開幕することは、何となく話には聞いていた。すでにジーコが鹿島に加入しており、スタジアムも完成していたが、こんな小さな街にプロサッカーリーグができることの意味が、当時の私にはまったく理解できなかった。
(残り 2031文字/全文: 3179文字)
この記事の続きは会員限定です。入会をご検討の方は「ウェブマガジンのご案内」をクリックして内容をご確認ください。
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
会員の方は、ログインしてください。
外部サービスアカウントでログイン
Twitterログイン機能終了のお知らせ
Facebookログイン機能終了のお知らせ