牧歌の時代から一変!2000年代のハフカテ事情 君は「地獄の北信越」を知っているか?<2/2>
■「やる気がないなら去ってくれ」と宣告された山雅クラブ
「2000年くらいの頃は、エルザのほうが意識は高かったですね。ウチはチーム状態も成績も悪くて、あの頃はとても上を目指せる状況ではなかったです。県内から上を目指すんだったら、むしろ上田ジェンシャンのほうが可能性はあったと思います」
「ちょうどその頃、アルウィンができるという話になったんですよね。2001年に完成して、僕らも山雅クラブ時代から使っていましたが、お客さんなんかぜんぜんいない。身内ばかりで、100人もいなかったと思います」
松本山雅FCを運営する、株式会社松本山雅の理事、高橋耕司と小林克也の回想である。話を聞いたのは、昨年の10月14日。年内最後の信州ダービー前日のことだ。1980年代半ばに、20代で当時の山雅クラブに入団した両者も、この年に還暦を迎えていた。
信州ダービーの成り立ちについては、すでに多くのメディアで触れられている。だが、それ以前の北信越リーグの状況というものは、実は意外と顧みられることはなかった。これまでクラブ関係者には、たびたび取材の機会をいただいているが、山雅クラブでプレーした人物に話を聞くのは、実はこれが初めて。まずは「地獄以前」の北信越リーグの話から語ってもらった。
「高橋は95年で(現役を)上がったけれど、僕は2002年まで選手登録して、運営をやりながら時々試合に出ていました。(唯一出場した)地域決勝は85年。コスモ(大協)と1次ラウンドで対戦して、0−11でボロクソにやられているんですよね。ゴールを決められるたびに、僕がセンターサークルにボールを置く、その繰り返しでした。『せめて1点だけでも取りたい』と思ったのは、大人になって初めて(苦笑)。それくらい、北信越と全国との間に差がありました」
苦笑まじりの小林の回想を受けて、高橋がこう補足する。
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