宇都宮徹壱ウェブマガジン

「お金がない」から脱却(?)J2最古参クラブの逆襲 小島耕(水戸ホーリーホック代表取締役社長)<2/3>

「お金がない」から脱却(?)J2最古参クラブの逆襲 小島耕(水戸ホーリーホック代表取締役社長)<1/3>

1993年にJリーグが開幕して街の風景が変わった

──今年はJリーグ30周年ですが、1993年の開幕時、小島さんはどうされていたんでしょうか?

小島 僕は水戸の予備校に通う浪人生でした。水戸駅8番線から大洗鹿島線というのが出ているんですけれど、そこの新鉾田駅というのが、僕の実家の最寄り駅なんです。

──実は昨日、カシマサッカースタジアムで取材があって、大洗鹿島線で水戸まで移動したんですけれど、小島さんはまさにあの路線を行き来していたんですね?

小島 そうです。高校も水戸だったんですが、その後も予備校通いをしていたので、大洗鹿島線には思い出がたくさんあります。もっとも1993年以降は、水戸に向かうよりも鹿島に向かう電車に乗る回数のほうが多かったかもしれない(笑)。けっこうスタジアム通いを続けていましたから。

──鹿島アントラーズの試合をよく観ていたということですか?

小島 はい。というか、もともと僕は鹿島サポだったんですよ。それこそ高校時代はJSLの住友金属時代のジーコさんも観ていますし、名古屋グランパスとの開幕戦でのジーコさんのハットトリックもサポーター席で目撃しています。ちなみに当時の名古屋には、鉾田出身の浅野哲也さんという日本代表がいたのですが「浅野さんもこっちに来ればいいのに」とか思っていました(笑)。

──小島さんとは、それなりに長い付き合いですが、鹿島サポだったとは知りませんでした(笑)。それ以上に感慨深いのが、当時ゴール裏にいた人たちが、今ではJクラブやJリーグの要職に就いていることです。ところで小島さんの実家のある鉾田市というのは、鹿島のホームタウンである鹿行地域に入っていますよね?

小島 そうです。大洗から向こう側は鹿島の勢力圏内です(笑)。ですから地元にいても、Jリーグ開幕以前と以後とでは、まるで風景が違って見えましたね。もともと野球が盛んだった地域が、いつの間にかサッカーの話題で盛り上がるようになって、みんながアントラーズカラーを身に付けるようになりました。水戸の予備校でも、鹿島のユニを着て授業を受けている学生もいたくらいです(笑)。

──今では「サッカーがある日常」が当たり前になっていますけれど、1993年当時の茨城県でそういう現象が起こったことで、本当に特筆すべきことでしたよね。

(残り 2457文字/全文: 3482文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

日本サッカーの全てがここに。【新登場】タグマ!サッカーパック

会員の方は、ログインしてください。

1 2
« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ