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復刻版『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』 ナントからニュルンベルクへ クロアチア<2/3>

復刻版『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』 ナントからニュルンベルクへ クロアチア<1/3>

「プロフェッサー」アサノヴィッチが語るナントでの日本戦

 アドリア海を望む、クロアチア第2の都市スプリト。イタリアに向かうフェリーが停泊している波止場から、少し奥まった場所に「ル・モンド」という瀟洒なカフェがある。オーナーのアリオシャ・アサノヴィッチは、8年前のワールドカップでの日本戦に想いを巡らせていた。 

「あの日のナントは、本当に暑かった。ピッチ上は40度近くあったと思う。そして、あの試合での日本は、とにかくよく走るチームで、われわれをホトホト困らせてくれた。最後は(ダヴォル・)シューケルのゴールで、何とか勝利を手繰り寄せることができたが、今思い出しても非常に厳しい試合だったね」 

 窓の外では、みぞれ交じりの雨が降り続いて異様に肌寒い。だが、元クロアチア代表の眼前には、1998620日の「ラ・ボージョワール」での灼熱のピッチが広がっていた。 

 今回、私がクロアチアを訪れたのは、今年618日のワールドカップでの再戦に際し、伝説の「98年組」と現在の代表との共通点、そして相違点を見極めたいと思ったからだ。ザグレブでモドリッチにインタビューしたのも、そのためである。 

 では「98年組」については、誰に話を聞くべきか。単なる昔話ではなく、この8年間におけるクロアチア・フットボールの変化と不変、さらには現在の日本に対する評価についても言及してもらいたい。となると、適任者はアサノヴィッチ以外には考えられない。「プロフェッサー」というニックネームを持つ、頭脳明晰な左利きのテクニシャンは、200112月に現役を引退。その後は 代表時代の僚友、スラヴェン・ビリッチとのコンビでU-21代表を指揮していた。 

 初出場ながら、祖国クロアチアを世界3位に導いた「98年組」。その代表格といえば、ボバンやシューケルの名前が、まず浮かぶことだろう。だが、98年のワールドカップで全試合にフル出場し、ピッチの内外でチームを陰で支えていたのは、他ならぬアサノヴィッチであった。当時の監督、ミロスラフ・ブラジェヴィッチが「(あのチームでは)ボバンが法務大臣、シューケルが財務大臣、そしてアサノヴィッチが首相だった」と回想していることからも、それは明らかだ。 

 加えてこの人は、不思議と日本に縁が深い。1997年のキリンカップでは、豪快なFKPK2ゴールを挙げ、ナントの決戦ではシューケルに決定的なアシストを供給。その瞬間を多くのファンが、今も鮮烈に覚えていることだろう。左サイドに切れ込んだアサノヴィッチが、まったくルックアップせずに100パーセントの確信をもってクロスを放つ。弾道は、シューケルの左足に ピタリと収まった。 

「われわれは互いをよく理解していた。もともとあのチームでは、中盤と前線との間に非常にいいフィーリングがあって、パッサーとなる人間はストライカーが今どこにいるのか、誰もが予測することができた。だが、何といってもシューケル! 彼は前線でのスペースの嗅覚に長けた、まさにフェノメノ(怪物)だ。 そして私は、彼がどこにいるのか、どんな時でも感覚的に理解できた。日本戦でも、あのような局面で彼がどこにいるか、顔を上げなくても分かっていたよ」 

 臨場感たっぷりに、当時を振り返るアサノヴィッチ。時おり貧乏ゆすりをする左足には、あの時のクロスの感触が今も残っているのだろうか。この左足による一閃が、クロアチアを決勝トー ナメントに押し上げ、そして日本をグループリーグ敗退に陥れた。 

 あれから8年。伝説の「98年組」は、その多くがユニフォームを脱いだ。ゆえに、クロアチアはスケールの小さいチームに堕して今に至っている──。そう、日本人の多くは、再戦するライバルを見ていたはずだ。しかし、先のアルゼンチン戦での劇的な勝利によって、その希望的観測は脆くも打ち砕かれてしまった。

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