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村井満の「ビフォア・Jリーグチェアマン」 リクルートでの30年で学んだこと<3/3>

村井満の「ビフォア・Jリーグチェアマン」 リクルートでの30年で学んだこと<2/3>

浦和のACL初制覇と企業買収、そしてリクルートのアジア進出

──リーマン・ショックがあった2008年、村井さんはJリーグの社外理事に就任します。きっかけは何だったのでしょうか?

村井 リクルートエージェントでは、JリーグやNPB(日本野球機構)に、選手のキャリアサポートをしたり、出向者を送り込んでいたりしたんです。それが縁で6年間、Jリーグの社外理事を務めることになります。実はこの年にもうひとつ、仕事とサッカーが結び付く出来事があったんです。前年の2007年、浦和レッズが初めてACLで優勝したんですが──

──覚えています。決勝の相手はイランのセパハンで、たしか村井さんはイスファファンでのファーストレグにも応援に行っていますよね?

村井 そうです(笑)。それで埼玉スタジアムのセカンドレグに、ビジネスパートナーになってほしいと思っていた英国人を招待したんです。実は彼はリバプールの大ファンで、同じ「レッズ」じゃないですか。ですから浦和が優勝した瞬間、ふたりして抱き合って喜び合いました。その時に「ぜひ、われわれのグループに入ってくれ!」と言ったら、リバプールファンの彼はその場で快諾。翌2008年には買収が決まるという、嘘のような本当の話です。

──長年、浦和を応援してきて、ついにビジネスに結び付いたわけですね(笑)。

村井 たまたまですけどね(笑)。実はこの時の買収は、リクルートがアジアでビジネス展開する上で、重要な布石となるものでした。私自身が、香港法人の社長に就任するのは2011年なんですが、アジアでのビジネス経験がなかったら、おそらくJリーグチェアマンの仕事はまっとうできなかったと思います。

──なるほど。それにしてもリクルートはなぜ、アジアでのビジネスに進出したのでしょうか?

村井 それには明確な目的がありました。バブル崩壊以降、日本の製造業は海外の生産拠点で安く作ったものを日本国内で販売していたんですね。やがて国内の市場がシュリンクしていく中、今度は日本製品を海外で販売していくことが求められるようになります。

 ところが、海外で働いている日本人といえば、工場の品質や生産の管理者ばかり。日本製品を売るためのマーケティング戦略をする人材、あるいは現地のニーズに合わせて商品をカスタマイズできる開発やセールスの人材が不足していました。

──つまり、日本企業のアジア進出のための人材を、日系企業を中心に送り出すことにビジネスチャンスを見出そうとしていたと。

村井 そういうことです。けれどもアジア進出の準備を進めるうちに、私の中で「これは単なるビジネスの話ではないぞ」と考えるようになりました。ここで自分が歯を食いしばって、日本企業のために貢献しないと、この国は将来大変なことになるのではないか──。最初は漠然と考えていたのですが、2008年のリーマン・ショックと11年の東日本大震災で確信に変わりました。

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