村井満の「ビフォア・Jリーグチェアマン」 リクルートでの30年で学んだこと<2/3>
■浦和レッズとの出会いと「サッカーファンであり続けた」意外な理由
──少し時代は前後するのですが、1993年5月15日、村井さんはどうされていましたか?
村井 Jリーグ開幕をどこで迎えたのか、という話ですよね。実はあの試合、どうしてもチケットが手に入らなくて、TV桟敷で観戦していました。国立競技場で歴史を目撃した人たちが、とても羨ましかったです。
──今となっては、びっくりするような話ですよね(笑)。それでは、日本サッカーがプロ化することについては、どんな想いで受け止めていたのでしょうか?
村井 ものすごく、ワクワクした気持ちになりましたね。プレーヤーとしては高校まででしたが、大人になってもずっとサッカーファンでしたから。
──やがて村井さんの地元が、浦和レッズのホームタウンになります。初めてご覧になった浦和の試合は覚えていますか?
村井 もちろんです。1992年に始まったナビスコカップの初戦。相手はジェユナイテッド市原で、私は大宮サッカー場のゴール裏で観戦していました。浦和レッズとの付き合いは、そこからです。以来、Jリーグの社外理事になるまで、ずっとシーズンチケットを購入していました。
──まさに筋金入りですね(笑)。日本代表については、いかがでしょう?
村井 ワールドカップ予選は、何とかスケジュールをやりくりして参戦しました。フランス大会のアジア最終予選は、アウェイを含めてほぼ行きましたね。もちろん、ジョホールバルにも。0泊3日の弾丸ツアーで、現地では両替もしませんでした。試合が終わったら、翌日の出社に間に合うように、余韻に浸ることなく大慌てで空港まで戻りました(笑)。
──あの試合を現地観戦されていたというのは、羨ましい限りです。それにしても、ジョホールバルといえば1997年。当時の村井さんは、それなりの役職に就いていたと思うんですが。
村井 人事部長ですよ。本来ならば、仕事そっちのけで弾丸ツアーに参加するような部下を叱りつける立場だったわけで、本当に洒落にならない話ですよね(笑)。
──ですよね(笑)。そこでぜひお聞きしたいのですが、村井さんはなぜ、そこまでサッカーにのめり込んでいたんでしょうか? もちろん、ご自身もプレーしていたというのも、あったとは思うんですが。
村井 そのこととは別に、28歳の時に長男を亡くしていたことも関係していると思っています。
──村井さんにはお子さんが3人いらして、最初のお子さんがわずか2歳で亡くなったことは存じ上げておりました。ちょうどリクルート事件の対応で、大変だった頃ですよね?
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