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村井満の「ビフォア・Jリーグチェアマン」 リクルートでの30年で学んだこと<1/3>

 サッカー界に登場する以前のキャリアについて、村井満さんに語っていただく「ビフォア・Jリーグチェアマン」。サッカーに打ち込んだ少年時代からリクルート入社までの前回につづいて、今回はリクルート入社後からすべての役職を退任するまでの30年間を振り返っていただく。

「マネジメントの才能は後天的」──

 これはリクルートの創業者である、故・江副浩正氏が残した言葉である。芸術や音楽やスポーツでの天才少年・少女は存在するが、ビジネスの世界に天賦の才能は存在しない、というのが江副氏の考え。村井さんのキャリアを振り返ると、その指摘は驚くほどに符合する。

「凄腕のビジネスパーソン」として、Jリーグチェアマンに迎えられた村井さんであったが、実のところ社会人としてのスタートは、地味でぱっとしないものであった。そして経営者となってからは、屈辱的な失敗も経験している。

 リクルートにおける村井さんのキャリアは、1983年から2013年までの30年間。その間には、リクルート事件、バブル崩壊、リーマン・ショック、そして東日本大震災があった。こうした危機に直面するたびに、重大な決断を迫られてきた村井さん。ここで注目すべきは、当時の決断の数々が、チェアマン就任後の「出典元」となっていることだ。

 そんなわけで村井さんには、リクルート時代30年の「学び」について語っていただいた。なお本稿は、これまでになくサッカー成分が少なめ。およそ3割弱であることを、あらかじめお断りしておく。むしろ「自分の勤め先のトップが村井満だったら」と想像しながら読み進めると、意外と楽しめるだろう。(取材日:2022423日@さいたま)

コンプレックスが少しずつ解消されていった新人時代

──村井さんが早稲田大学を卒業して、当時の日本リクルートセンターに入社したのは1983年。「リクルート」に社名変更する前年となります。同期は何人くらいいたんでしょうか?

村井 150人くらいですかね。今でこそ誰もが知る大企業ですが、当時のリクルートは、それほど有名ではありませんでした。ところが実際に入社してみると、東大をはじめ有名大学卒がごろごろいて、しかも個性派揃い。リーダーシップが強いやつもいれば、宴会で引っ張りだこになる芸達者なやつもいて、こんなに癖の強いのをよく集めてきたなと思いました。新入社員の半数くらいが女性だったのも、リクルートの採用方針が色濃く現れていたと思います。

──当時のリクルートの社長は、創業者の江副浩正さん。江副さんは、経営オペレーションよりも採用を優先するような人だったと聞いています。村井さんは江副社長とは、1on1でお話する機会はあったんでしょうか?

村井 さすがにそういう機会はありませんでしたね。クオータリー(四半期)ごとに、全社員の前に出てきて話をされていましたが、直接対話できる距離感ではなかったです。

──それで最初に配属されたのが、東京の神田営業所。リクルートの営業といえば、1100件のアポ取り電話とか、朝から夕方まで飛び込み営業とか、やたらと厳しいと聞いています。村井さんも相当に揉まれたんでしょうか?

村井 本当にハードな日々でしたね。外回りの厳しさもさることながら、オフィスにいる時も気が休まりませんでした。昼休みとか、社員が仲良くご飯を食べているわけですよ。その輪に入れなくて(苦笑)。学生時代からの群れたがらない性格は、相変わらずでした。

 そんな私に、営業先で運命的な出会いがありました。秋葉原で栄電子を起業されていた、染谷英雄という社長さん。当時は従業員が20人もいない、小さな会社でした。染谷さんは山形の出身で、高校は進学校だったのですが、家庭の事情で東京に出て家電量販店で修行してから起業します。とても引っ込み思案な性格の方で、人前で流暢に話をすることができなかったそうです。

──そんな染谷社長との出会いが、なぜ運命的だったんでしょうか?

村井 それまで私が抱いていた「社長」のイメージは、豪放磊落でコミュニケーション能力が高くてオーラもある、というものでした。ところが、自分のパーソナリティと重なるような経営者もいることを知って、ものすごいカルチャーショックを受けたんですね。

 それからは、毎日のように栄電子に通い続けました。2年目の12月、私は家内と結婚式を挙げるのですが、式場に向かう前にも栄電子に顔を出していました(笑)。それくらい染谷さんに影響を受けたし、学んだこともすごく大きかったんです。

──その後、村井さんの営業成績は上向いたんでしょうか?

村井 いえ(苦笑)。栄電子に入り浸っていた頃は、私の業績は悪いままでしたが、どこかで吹っ切れたんでしょうね。そのうち、自分の担当エリアにある会社すべてを回るようになりました。飛び込み営業を繰り返しているうちに、見る見るダンボール箱が名刺で溢れかえるようになります。なぜそうなったかというと、「とにかく立派な経営者にお会いしたい」と思うようになったから。この営業時代の経験は、今から考えると非常に得難いものとなりましたね。

──そう思えるようになったのも、まさに染谷社長との出会いがきっかけだったと。

村井 そうです。ちなみに江副さんも、実は社交性があまりない人だったそうです。カリスマ経営者というタイプでもなかった。そうして考えると「あ、俺みたいなタイプでもいいんだな」と考えられるようになりました。リクルートに入社して5年くらいは、そんな感じで自分の中にあったコンプレックスが、少しずつ解消されていった時代でした。

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