宇都宮徹壱ウェブマガジン

村井満の「ビフォア・Jリーグチェアマン」 川越のサッカー少年、リクルートへ<1/2>

 今週はJリーグ前チェアマン、村井満さんにご登場いただく。といっても、インタビューさせていただいたのは、チェアマン退任から間もない昨年4月のこと。じっくり寝かせておいたものを、満を持して蔵出しすることと相成った。

 最近の村井さんといえば、日本バドミントン協会の副会長に就任後、さっそくスポーツ庁長官に改革の決意を伝えたことが報じられた(参照)。また、チェアマン時代の経験に即した教訓をまとめたプレジデントオンラインの連載Jの金言』は、Yahoo!にもよく取り上げられているので、ご覧になった方も多いだろう。

 チェアマン退任から間もなく1年。再び注目を集めつつある村井さんだが、当WMでは独自の角度から切り込んでいる。すなわち、

「どのような人生を歩んだ結果、村井満はJリーグチェアマンになったのか?」

 というのが、本稿のテーマである。

 周知のとおり、歴代のJリーグチェアマンは、Jクラブの社長経験者やサッカー界に功績を残した人物ばかり。ただし、第5代の村井満を除いて。村井さんのサッカー経験は高校時代で終わっており、サッカー界ではまったくの無名であった。チェアマン就任以前、Jリーグの社外理事を6年務めていたものの、チェアマン候補としてその名が挙がった時には、「村井って誰?」というのがサッカー界での反応だった。

 しかし、ビジネス界隈における村井さんのキャリアは、実に眩いばかりである。2000年にリクルートの執行役員となると、2004年にリクルートエイブリック(現・リクルートキャリア)代表取締役社長に就任。2011年にはリクルート・グローバル・ファミリー香港法人(RGF HR Agent Hong Kong Limited)社長、さらに2013年には同社会長に就任している。

 村井さんが「異端のチェアマン」と呼ばれるのは、単にサッカー界出身でなかったからではない。むしろ時価総額8兆円の企業で執行役員となり、さらにグローバル企業の社長や会長まで務めたことに起因する。これほどのビジネスの成功者が、なぜ名誉職でも天下り先でもない、Jリーグチェアマンという重責を引き受けたのか? それがずっと不思議だった。

 その答えは、村井さんの歩んできた人生にあるはず。そう考えて実施したのが、今回のインタビューである。トータル3時間の取材だったので、今月と来月の2回、それぞれ1万字にまとめてお届けする。今回は、川越のサッカー少年がリクルートに入社するまでを振り返っていただいた。(取材日:2022423日@さいたま)

1/2>目次

*人生を変えた『赤き血のイレブン』

*県予選で力の差を見せつけた浦和南

*大学でサッカーを続けなかった理由

人生を変えた『赤き血のイレブン』

──村井さんは1959年(昭和34年)8月2日のお生まれ。ご出身は、埼玉県の川越市ですね?

村井 そうです。川越市でも少し外れの方でした。駅でいうと、東武東上線の霞ヶ関。何だか官庁街みたいですけど、まだベッドタウンになる前、本当に何もない街でした。私には姉がふたりいて、小学1年の時に、上の姉が6年、下が4年。片道4キロを歩いて通ったのが、川越市立霞ケ関小学校だったんですが、そこで出会ったのがサッカーだったんですよ。

──当時、川越に少年団があったのでしょうか?

村井 いえいえ、少年団もなければ、小学校ですから部活はありません。それでも学校に行くと、なぜかサッカーボールはたくさんあったんですね。誰に教わるわけでもなく、サッカーに夢中になって、小学6年の女子に勝負を申し込んだこともありました(笑)。

──そんな中、村井さんに衝撃を与えることになったのが、小学5年の時に出会ったサッカー漫画『赤き血のイレブン』(原作:梶原一騎 作画:園田光慶・深大路昇介)でした。少年キングでの連載が始まったのが1970年。日本テレビでアニメ放映がスタートしたのも、同じ年でした。

村井 今の若い方はご存じないでしょうが、主人公の玉井真吾のモデルは、元日本代表の永井良和さん。舞台となる新生高校というのも、永井さんが活躍した浦和市(現・さいたま市)立浦和南高校だったんですよね。実は私の父は、当時の浦和市にあった埼玉県庁の職員だったんです。父の職場がある浦和。『赤き血のイレブン』の舞台となった浦和。子供心に、浦和は私の憧れの地となりました。

──その後、地元の霞ケ関中学に進むもサッカー部がなかったので、村井さんはバスケットボール部に入りました。それもあって、どうしても高校でサッカーをやりたかったわけですね?

村井 もっと言えば、浦和でサッカーをやりたかった。当時、川越から通える公立高校といえば、県立川越高校。伝統ある進学校です。『赤き血のイレブン』と出会ってなかったら、そっちのほうに行っていたと思います。もっとも、浦和南は考えていませんでした。むしろ私にとって、憧れの対象は「浦和」という地名にあったんでしょうね。

──当時の浦和市には、浦和南、浦和北、浦和西、浦和東という公立高校があり、さらに浦和市立と「浦高」こと(県立)浦和がありました。村井さんが受験されたのは、県立のほうですね?

村井 そうです。周りからは「川越から浦高に通うやつなんていないよ」とも言われましたけれど、周囲から反対されるとかえってファイトが湧くんですよね、昔から(笑)。

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