宇都宮徹壱ウェブマガジン

財務目線で振り返る2010年以降のJリーグの歩み シリーズ「Jリーグ現代史」大河正明の場合<1/2>

 先月からスタートした月イチの徹ルポ、シリーズ「Jリーグ現代史」の第2回。前回の中西大介氏につづいて、今回は大河正明氏に登場していただく。

 大河氏は1958年生まれの64歳。Jリーグ常務理事、Bリーグチェアマンを経て、現在はびわこ成蹊スポーツ大学の学長を務めている。このほど、2つのプロリーグでの経験を踏まえて『社会を変えるスポーツイノベーション』を上梓。スポーツビジネスを志す若者には、ぜひとも手にとってほしい内容となっている。

 今回、大河氏には「2010年以降のJリーグ」について、主に財務の面から振り返っていただいた。ちょうど第4代チェアマンに大東和美氏が就任した2010年は、Jリーグの財務状況が悪化し始めたタイミングであり、これが5年後の2ステージ+ポストシーズン制の遠因にもなっている。

 その後、DAZNマネーの流入により財務面でV字回復を果たしたJリーグだが、2ステージ制導入に至るまでの時代は「黒歴史」の扱いを受けているように感じる。しかし30年の歴史を振り返った時、この「DAZN前夜」の状況もまた、きちんと押さえておく必要がある。なぜ、あの時代のJリーグは「カネがなかった」のか? 大河氏の話に耳を傾けたい。

 「残念ながら当時のJリーグ本体にはカネがなかった」

 「大東さんのチェアマン時代は、僕なり中西なりが実務的なところで動いて、それが機能していたんです。僕自身の仕事でいうと、クラブライセンス制度であったりJ3リーグの設立だったり、そういったことを一気呵成に進めることはできた。そういう意味では、上手く前に進んでいたのは確かなんです。けれども……

 けれども、と一区切り置いてから、彼はこう続ける。「残念ながら当時のJリーグ本体にはカネがなかった。これが最大の難点でしたね」──

 大河正明は2010年から15年までJリーグにて、主に財務を担当してきた。2012年から理事、14年から常務理事となり、J3設立やJリーグクラブライセンス制度の設計を主導。同じく常務理事の中西と共に、大東チェアマン時代の2期目を支えるとともに、後任チェアマンの村井満を迎える下地を作ったことでも知られる。

 それにしても「当時のJリーグ本体にはカネがなかった」というのは、具体的にどういうことか? これについては、2015年の「2ステージ+ポストシーズン制」の復活によって、Jリーグが得られた金額を思い起こせば、容易に理解できよう。地上波での露出と広告価値のアップで見込まれた、年間の増収額はおよそ10億円──。100億ではなく、10億である。

  その後のDAZNマネーを知っている現在の感覚であれば「たかが10億?」と思うかもしれない。しかしながらその10億を、リーグ戦の本質を曲げてまで掴み取らなければならないほど、当時のJリーグの財政は逼迫していたのである。 

 Jリーグの収益は、加盟クラブから支払われる会費、放映権料、そしてパートナー企業からの協賛金の3本柱である。加盟クラブの数は年々増加していたが、増えれば増えるだけ各クラブへの分配金は目減りする。その原資となる放映権料については、当時J1・J2の全試合を中継するスカパー!を中心に、NHKとTBSを加えた3社で5年契約。年間50億円ほどの収入があった。

 問題は、協賛金。これまで広告枠の販売は、開幕前から伴走してきた広告代理店の博報堂が独占し、Jリーグとミニマムギャランティ契約を結んでいた。ミニマムギャランティ契約とは、広告枠が埋まらなくても、最低限の金額を保証するというもの。実質的には、博報堂が赤字を補填する状態が続いていた。ところがこの契約が、2010年に見直されることとなる。

「それまで博報堂さんとは、40億円くらいでミニマムギャランティ契約を結んでいました。それが博報堂さん1社では無理という話になって、新たに電通さんにも入ってもらったんだけど、それでも広告枠を埋めることはできなかったんですね。一方で放映権についても、地上波での放送はほとんどない状態で、当時はスカパー!さんとの5年契約だったから、減ることもないけれど増えることもない。クラブの数も増える一方で、これは配分金をカットするしかない、というくらいの厳しい状況でした」 

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