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【無料公開】『電通とFIFA』の著者が語る 「スポーツ村のドン」高橋治之の原点<1/2>

「人対人」だったスポーツビジネスの黎明期

──日本におけるFIFA関連の案件が、ジャックさんのビジネス相手だったウエスト・ナリー社から電通に切り替ったのは、アベランジェとホルスト・ダスラー()のコンビであったことが本書で書かれています。それにしても彼らは、電通の価値というものをどう考えていたんでしょうか?

ホルスト・ダスラー(1936~87)は、アディダスの創始者、アドルフ・ダスラーの息子。1970年代に実権を握ると、電通と共同でISLを設立し、IOCFIFAのビッグイベントにも大きな影響を与えたとされる。

田崎 高橋さんが1970年代に単身、FIFAハウスに乗り込んでプレゼンするまで、たぶんまったく知らなかったと思いますよ。なぜかというと、当時の電通って、非常にドメスティックな日本企業だったので、海外では知られていなかったんですよね。ダスラーはヨーロッパの人間だし、アベランジェも日本に対してそこまで知識があるわけではなかったですから。

──そんな電通をFIFAと結び付けることに成功した高橋さんは、やっぱりすごい人だったんですね。

田崎 もちろん、その間には1979年のワールドユース(日本大会)で出会ったブラッターの存在も欠かせなかったわけですが。それと電通が80年代に入って、スポーツがビジネスになるということで、世界進出に積極的になったのも大きかったですね。そのタイミングと、高橋さんの動きがうまく重なったというのが実際のところだったと思います。

──なるほど。1982年のワールドカップから電通が仕切るようになって、その2年後に商業化路線に大きく舵を切ったロサンゼルス五輪があった。FIFAや電通の動きがある一方で、経済状況や世界情勢の変化が重なっていくということでしょうか?

田崎 先ほども言いましたが、僕はいつも年表を作って取材しているんですね。人や組織の動きを横軸、世の中の動きを縦軸とすると、縦横合わせていろんなものが見えてくるし、そうした視点から説得力のある質問もできるんです。高橋さんなんかも「田崎さんの方がよく知っているからもういいよ」みたいなこと言っていましたけどね(笑)。

──実は私が初めて観たサッカーの試合が、1977年に国立競技場で開催された『ペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパン』でした。あの試合を高橋さんがプロデュースされていたことも本書で知りましたが、思えばあそこから日本のスポーツ興行のあり方が、どんどん変わっていったんですよね。

田崎 そうですね。僕はペレの引退試合もワールドユースも何となく覚えていますが、強烈な記憶として残っているのは、フィールドに看板が並ぶのが当たり前になった80年代に入ってからの試合です。ジャックさんもおっしゃっていましたけれど「あの時代はアイデアを出せば、すぐにビジネスに反映させることができた」と。

 あと、今のスポーツビジネス界は、FIFAとか電通とかTV局とか、すべて組織対組織の付き合いです。でも、当時は「人対人」だったと。ジャックさんや高橋さんのような、非常に個性のある人たちが、互いの顔が見える現場で仕事をしていたというのも、今との大きな違いでしょうね。

──電通もまた、高橋さんのような一匹狼タイプが活躍しにくい組織になったんでしょうか?

田崎 皆、サラリーマンじゃないですか(笑)。それに上場して、コンプライアンスを徹底していかなければならなくなったので、働く人はどうしても小粒になっていきますよ。それを「近代化」と呼ぶのかも知れませんが。

──FIFAはマーケティング部門を切り離すことを改革のひとつに掲げているじゃないですか。ということは、電通にとってチャンスだと田崎さんは本書で書かれていましたけども、実際のところ可能性はあると思いますか?

田崎 難しいんじゃないんですかね。本当はやってほしいんですよ。電通にはノウハウもあるわけだし。ただ、日本社会全体が内向きになっている気もするので、そういう意味での難しさもあるように思うんです。それでも、希望としては改革を目指すFIFAに、もっとコミットしてほしいところですね。

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