宇都宮徹壱ウェブマガジン

写真で振り返る「2002年の記憶をめぐる旅」<宮城・大分篇>

 先週と今週は、THE ANSWERにて連載中の日韓W杯20年後のレガシーにて寄稿した原稿と写真をもとに、フォトギャラリーとインタビュー記事をセットでお届けする。先週の<新潟・静岡篇>に続いて、今週は<宮城・大分篇>。連載では触れていない、取材時の裏話を交えながら紹介していきたい。

 さて、今日は6月30日。20年前のこの日、私は何をやっていたかというと、前日に韓国のテグで開催された3位決定戦(韓国vsトルコ)を取材して、日本にとんぼ返りして新横浜に直行。かなりギリギリのタイミングで横浜国際総合競技場に到着して、ブラジルとドイツによるファイナルを取材した。

 あまりの忙しさと慌ただしさで、ブラジルの優勝で終わったファイナルの余韻は、ほとんど感じることはなかった。初めて取材パスをもらってのワールドカップ。毎日の取材と執筆に忙殺され、ネットでの評価に一喜一憂している間に、31日間の大会はあっという間にフィナーレを迎えたように記憶する。大会そのものを振り返る余裕が生まれたのは、ずっとあとになっての話だ。

 あれから20年。大会の開催地をめぐりながら、関係者の証言を引き出すことで「2002年のワールドカップとは何だったのか?」について、ようやく自分の中で消化させることができた。忘却の彼方へと消えてしまう前に、このような取材ができた幸運を噛み締めている。今日で6月も終わり。20年前の祝祭の日々を振り返る、ひとつの契機となれば幸いである。

 4月30日、宮城県の仙台市へ。スポーツパーク松森にて、地元のジュニアユースクラブ「ACアズーリ」を取材する。2002年のワールドカップで、仙台市がイタリア代表のキャンプとなったのがきっかけで、2年後の2004年に設立された。「アズーリ」の名称とエンブレムのデザインの流用について、イタリアのサッカー連盟からお染み付きをもらっている。現在はコロナで中断しているが、中学3年の春休みにはイタリア遠征を継続的に行っていた。

 ACアズーリを設立したのは、イタリア代表キャンプでも尽力した、佐藤章治さん(故人)と鈴木武一さん。佐藤さんはピッチ外、鈴木さんはピッチ内と役割分担は明確だったそうだ。鈴木さんは読売クラブで活躍後、ブランメル仙台の立ち上げに尽力。ベガルタ仙台の初代監督も務めた。当時のイタリア代表監督、ジョバンニ・トラパットーニ監督とのトレーニングの打ち合わせは「人生で最も幸せな時間」だったそうだ。

 翌5月1日は、宮城スタジアム(キューアンドエースタジアムみやぎ)へ。今回は東北大教授の村松淳司さんに、利府駅でピックアップしていただいた。本当はイベントがあるタイミングで訪れたかったのだが、3月16日の夜に発生した福島県沖を震源とする震度6の地震によって、スタジアムは甚大な被害を受けて閉鎖。実は東日本大震災以来の大きな揺れだったそうだ。

 村松さんがいてくれたおかげで、スタジアム内の展示物を見学することができた。この集合写真、2002年をリアルタイムを体験したファンなら、すぐにピンとくるはず。そう、ラウンド16でのトルコ戦で誰もが驚いた、日本代表のスターティングイレブンである。誰のせいと言うつもりはまったくないが、この顔ぶれをみているとどうしても、あの承服し難い敗戦の記憶が蘇ってしまう。

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