宇都宮徹壱ウェブマガジン

オー・スポルト・ティ・ミール モスクワ 2000 復刻版『ディナモ・フットボール』<3/4>

史上最強のディナモ キエフ 2000 復刻版『ディナモ・フットボール』<2/4>

 今週はGW特別企画、2002年にみすず書房から上梓した『ディナモ・フットボール 国家権力とロシア・東欧のサッカー』から、プロローグを含む4話分を4日連続で公開する。本日お届けするのは「オー・スポルト・ティ・ミール モスクワ 2000」。いよいよ「元祖ディナモ」ディナモ・モスクワが登場する。

 先に訪れたウクライナと異なり、おっかなびっくり初めて訪れたロシアは、意外と親しみが持てる国であった。それはディナモ・モスクワのプレスオフィサー、オレグ・メドヴェデフさんの人柄に負うところが大きかったと思う。英語が堪能でオープンマインドなオレグさんのおかげで、モスクワでの取材は順調。「ディナモで書籍ができるかもしれない」という確信が持てたのも、オレグさんとの出会いがきっかけであった。

 この章のクライマックスは、ディナモとスパルタクとのモスクワ・ダービー。フーリガンと警官との闘争を目の当たりにしたのは、この試合が初めてであった。ソ連崩壊による混乱が続いていた、当時のロシアの国情やフットボールの現場の空気感も、かなりリアルに再現されていると自負する次第だ。

 どんな国にも「フットボールの黎明期」と呼ぶべき牧歌の時代がある。 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、大英帝国の人々は驚くべき行動力で7つの海をわたり、 球体を蹴り合う不思議な遊戯を世界中で披露している。それは、かつて胡椒や象牙や奴隷をヨーロッパへ送り出したアフリカの港だったり、富と土地と希望を求めてやって来た移民たちが さまよう南米の平原だったり、豚の皮でできたボールに触れることさえ忌み嫌う厳格なムスリムたちが暮らす砂漠だったりした。

 フットボールを異国に伝えた人々は、その多くが船乗りであったが、なかには鉄道技師や軍人や宣教師の場合もあった。すでに19世紀末の「母国」では、フットボールはエリートから庶民の所有物となっていたが、彼ら英国人は皆、フットボールを心から愛していたのだろうか。むしろ何も娯楽がない異国の地において、おそらくフットボールだけが、彼らのほとんど唯一の気晴らしであったように私には思えてならない。 

 さて、ユーラシア大陸に広がる北方の大国・ロシアにおいて、フットボールを初めて伝えた人物については諸説あるようだが、そのなかでも最も有名なのが、モスクワ郊外で「モロゾフ」という綿紡績工場を経営していた英国人、ハリー・チャーノックであったことは衆目の一致するところである。時に1887年、ロマノフ王朝最後の皇帝となるニコライ2世の戴冠式が行われる7年前の話である。チャーノックは、休日にウオッカを痛飲する労働者たちの生活態度を改めさせようと、ロシア人にフットボールを奨励。ここに、ロシア初のフットボール・ クラブ「モロゾフツィ(モロゾフの仲間たち)」が誕生する。 

 やがてモロゾフツィは、モスクワのどのチームも手がつけられないほどの強豪チームに成長し、「モスクワの恐怖」と呼ばれるようになる。チームカラーの「青と白」は、創設者のチャーノックが、ブラックバーン・ローヴァーズの熱烈なファンであったことに由来していた。 

 第1次世界大戦に揺れていた191716日(ロシア暦14日)、ペトログラード(現・サンクトペテルブルク)のネヴァ川に停泊していた巡洋艦・オーロラ号の砲声を合図に、レーニンとトロツキーが率いるボリシェビキが武装蜂起を開始する。人類史上初の社会主義革命の嵐は、19221230日の「ソヴィエト社会主義共和国連邦」成立まで断続的に続いた。 

 内戦、飢餓、混乱、恐怖──。革命は多くの人々の命を奪い、あらゆる価値観を破壊したが、それでもフットボールが死に絶えることはなかった。チャーノックが作ったモロゾフツィは、革命の混沌のなかを何とか生き延び、ソ連邦建国の翌年に新たなクラブとして生まれ変わる。 

 1923418日に設立されたそのクラブには、しかし、チャーノックもモロゾフツィの愉快な仲間たちも名を連ねることはなかった。唯一、革命前のクラブから受け継いだのは「青と白」のチームカラーのみ。ロシア・フットボールの源流を受け継ぐ新しいクラブは、 

「ディナモ・モスクワ」

 と命名される。その後、東西両陣営のボーダーライン、ベルリンから、中央アジアのサマルカンドに至るまで、社会主義政権が誕生するたびに、モスクワに倣うかのように「ディナモ」という名のクラブが設立され、そのほとんどがチームカラーに「青と白」を採用した。 

 ここで、ディナモ・モスクワの歴史博物館に展示してある、クラブ設立当時のパンフレットに着目してみたい。 

 黄色く酸化した表紙を飾っているのは、ピンと鼻髭を生やした、まるで猛禽類のような鋭い目つきの男の顔ロシア革命史を多少なりとも齧った者であれば、およそスポーツ・クラブのパンフレットには似つかわしくない、その鋭角な相貌に見覚えがあるはずだ。 

 男の名は、フェリックス・エドゥムンドヴィッチ・ジェルジンスキー。KGB(国家保安委員会)の前身に当たる「チェーカー(反革命・サボタージュ取り締り全ロシア非常委員会)」の初代議長は、実はディナモ設立時の主要メンバーだったのである。 

 内務省、あるいは秘密警察のクラブ「ディナモ」の歴史は、このようにして幕を開けた。 

 200094日。私はロシアの首都・モスクワにやってきた。サハリンの最北端とほぼ同じ緯度に位置するモスクワは、すでに秋も深まりつつある。あとひと月もすれば、快適なフットボール観戦は望めないだろう。 

「モスクワ・キエフ」駅に降り立った私は、駅前でたむろしているタクシー運転手のなかからできるだけ人相の良い人間を選んで、500ルーブル(約2000円)で中心街に向かった。タクシーのメーターは止まったまま。フロントガラスには、稲妻のような亀裂が走っている。ロシアでは1990年代から慢性的なインフレに苦しみ、1998年元旦にデノミを断行したが、その年の夏には深刻な金融危機に見舞われた。誰もがルーブルと政府を信じていなかった。 

 それまで、シェレメチヴォ空港周辺の何とも味気ない風景しか知らなかった私にとって、夕クシーの車窓から見えるモスクワは、思いのほか美しい街並に映った。モスクワ川を越えれば、そこは荘厳な聖堂や宮殿、そして西側資本のブティックが並ぶ華やかな中心街だ。 

 この街の中核をなすのが、かの有名なクレムリンである。「城塞」を意味する、かつての東側陣営の政治、経済、軍事の中枢。それは、混迷を極める時代にあってもなお、その威容を十全に留めている。

 百万を越える最北の大都市・モスクワには、いくらでも見るべきものがある。ボリショイ劇場で2百年以上の伝統を誇るオペラやバレエを観劇するのもよし、チャイコスキー・コンサートホールで一流のオーケストラが奏でる旋律に酔いしれるもよし、プーシキン美術館で神々しいイコンを愛でるもよし、行列が苦でなければ「偉大な革命家」のミイラだって拝むことができる。だが私のお勧めは、何といってもフットボールである。少なくとも夏の間は、フットボールはこの国におけるナンバーワン・スポーツだ。 

 現在モスクワには、5つのクラブがトップリーグに名を連ねている。スパルタク、ロコモティフ、トルペド、CSKA、そしてディナモ。いずれも1920年代に設立されたモス の名門クラブだ。スパルタクは「生産者組合」、ロコモティフは「鉄道労働者組合」、トルペドは「自動車工場組合」、CSKAは「赤軍」、そしてディナモは「内務省」と、いずれのクラブも共産党政権の各省庁、もしくは労働者組合の後援によって誕生している。

 ロシアの「プレミアリーグ」は、現在16チーム。このうち5チームがモスクワを本拠としているため、シーズン中は毎週のようにモスクワでゲームが開催される。うまくすれば、ダービーと巡り合うことも決して稀ではない。実際、ディナモとスパルタクによる「モスクワ・ダービー」は、明後日に迫っていた。国内リーグ屈指の黄金カードである。 

 クレムリンに程近い「ホテル・ロシア」でチェック・インを済ませた私は、そのままベッド飛び込んでまどろみたい誘惑を振り切って、すぐさま見知らぬ街へと飛び出していった。 

 モスクワには、私の来訪を心待ちにしている人物がいたのである。 

「次はディナモ……。次はディナモ……

 メトロのアナウンスが、次の停車駅を告げる。私は何やら嬉しくなった。クラブの名がそのまま地下鉄の駅名になった事例は、ロンドンのアーセナルくらいしか思い浮かばない。 

 モスクワに地下鉄が開通したのは1935年。「アーセナル」駅は、その3年前に「ギレスピー・ロード」という駅名から改名しているので、歴史的には「アーセナル」のほうが古いのだが、「ディナモ」の場合、地下鉄開通当初から「ディナモ」であった。

 薄暗いプラットフォームに降り立つと、私はその重厚なイメージに思わず圧倒された。様々なアスリートの理想化された肉体が、大理石にレリーフ状に刻まれて至るところに置かれていたからである。注目すべきは、レリーフに描かれたアスリートたちが、円盤投げ、マラソン、 レスリング、水泳など、フットボール以外の競技に興じていることである。ディナモは、単なるフットボール・クラブではなく、総合スポーツ・クラブであることが見て取れる。 

 共産党政権は、自らのイデオロギーを補強する道具として、スポーツを重要視していた。平時においては共産主義の優位を世界に披露する道具となり、非常時においては勇敢な精神と強靱な肉体を有した若者を迅速に戦場に投入できるという意味において、確かにスポーツほど便利な道具は他にないだろう。ディナモやCSKAといった政府系のクラブが、ソ連建国直後に相次いで誕生したのは、決して偶然ではなかった。

 この日私は、ディナモ・モスクワのプレスオフィサー、オレグ・メドヴェデフ氏に面会することになっていた。モスクワ・ダービーの取材パスを受け取るためである。 

 メドヴェデフ氏とはもちろん今日が初対面であるが、実は日本を発つ前から何度かメールでやりとりをしていた。意外だったのは、こちらのオファーに対して氏のレスポンスが恐ろしく早かったことだ。ロシア・リーグやディナモに関する私の質問に対しては、実に懇切丁寧な英文で返事を遣してくる。「ディナモ—スパルタクのゲームを取材したい」と伝えたところ、「モスクワは貴方を心から歓迎します」という有難いメッセージまでいただいた。 

 ディナモのプレスオフィサーは、これまで私が漠然と抱いていたロシア特有の官僚体質のイメージとは、明らかに趣を異にする人物であるようだ。その小気味よい対応に感動を覚える方で、「もしかしてこれは、KGBの策略ではないか」などと、あらぬ不安が脳裏をよぎるほどであった。もちろん、KGBがディナモをサポートしていたのはソ連時代までの話だし、そもそもKGBという組織自体、今は存在しない。

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