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【無料公開】今こそ振り返ろう。Jリーグでの10シーズン クラブ社長が語る「J2年代記」松本山雅FCの場合<2/2>

この10年で山雅がJ2にもたらしたもの

 反町の辞任が発表されたのは2019年の12月8日。会見が行われたのが11日。そして12日には、後任として前ザスパクサツ群馬監督の布啓一郎の就任が発表されている。8シーズンにわたる長期政権、そして(別れの予感はあったとはいえ)突然の辞任発表を思えば、よくぞこの短期間で後任人事をまとめたものだと思う。神田は語る。

「布さんについては、周りからは『けっこう渋いところを狙ったね』と言われました。とはいえJ3で結果を出して、群馬をJ2に押し上げましたからね。加えて、われわれが重視したのは、継続性。ソリさんがこれまで築き上げてきたベースは失いたくないし、そこからもう一皮むけるためには、育成でも実績のある布さんの起用が一番ではないか。というところで、お声がけさせていただきました」

 おりしも2020年は、2010年代が終わって新たなディケイド(10年)が始まるタイミングでもあった。そして、この年に開催される東京五輪が、その号砲となるはずだった。私は2020年の山雅のイヤーブックに、この「ディケイド」を絡ませながら、新監督就任に期待する一文を寄せている。

 かくして、松本山雅FCにとって新しいディケイドは、新しい指揮官を迎えるところから始まった。前任者が8年間にわたって積み上げた歴史は、当然ながら布監督にとって少なからぬプレッシャーに感じられるだろう。それでも勇気をもって、2020年代に相応しい独自の色を、山雅というクラブに加えてほしい。クラブカラーのグリーンは不変だが、エメラルドもあればビリジアンもあれば柚葉色もある。いきなり赤や紫に変わることはないだろうから、そこはサポーターも安心してよいだろう。

 結局のところ2020年は、山雅にとって耐え難き試練の連続となってしまった。新型コロナウイルスの感染拡大により、開幕戦を終えただけでリーグ戦は4カ月にわたり中断。リーグ再開後、第7節からクラブ初となる5連敗を喫し、さらには第2節から11試合連続で勝利から見放された。順位は20位にまで落ち込み、第21節のホームでのFC琉球戦では16という歴史的大敗。これを受けて布は解任され、編成部長の柴田が後任監督に就任した。シーズン途中で山雅の監督が解任されるのは、9年前のJFL時代にまで遡る。

「確かに去年は、降格はありませんでした。でも、だからといって『布さんのまま、結果が出るまで待とう』ということにはならなかったですね。というのも去年、われわれは昇格しか見ていなかったんです。だからこそ、あのタイミングでの監督交代でした。もうひとつの理由が『山雅らしさ』が感じられなかったこと。ハードワークとか、最後まで諦めない姿勢とか。そうした部分は、われわれが最も重視していましたから」

 この年の山雅の最終順位は13位。J2デビューとなった、2012年の12位を下回る成績だった。「完成されたJ2」となってから10シーズン。このうち8シーズンを山雅は反町体制で戦い、2度のJ1昇格を果たしている。集客でも収益でも、概ね右肩上がりの状況が続き、いつしか山雅には「J2の優等生」というレッテルが定着するようになった。こうした状況を、当事者であるクラブの経営トップは、どう捉えていたのだろう。インタビューの最後に、この10年を神田に総括してもらった。

「この10年、経営基盤を含めてしっかりビジネスをしているクラブが、明らかにJ2でも増えているように感じます。それがピッチ上での現象として現れていますよね。その間、われわれはJ1の風景を2度も見ることができたので、今はそれが自分たちの評価軸となっています。そう思えるようになったのも、J2が『自分たちを磨く場所』だったからだと、最近は考えるようになりましたね」

 J2というカテゴリーについて、神田は「自分たちを磨く場所」と表現した。しかし当のJ2もまた、山雅というクラブによって豊かな彩りが与えられたことを、この機会に明記しておきたい。2005年に「Jリーグを目指す」と宣言してから、わずか7年でJ2に到達。さらに2度も自動昇格でトップリーグにまで上り詰めた。そして、そこで目にした「J1の風景」は、オン・ザ・ピッチやオフ・ザ・ピッチにもフィードバックされ、間違いなくJ2のレベルアップに寄与してきた。

 その事実は、松本山雅FCに関わるすべての人々が、誇ってよいのではないか。15年前の北信越リーグ時代から、このクラブを見つめてきた人間は、心からそう思う次第だ。

<この稿、了。文中敬称略>

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