宇都宮徹壱ウェブマガジン

松田直樹がひとりの書き手にもたらしたもの 10年後の真夏に振り返る「あの日」のこと

  10年前の「あの日」も、今日と変わらぬ真夏の暑い日だった。

  2011年8月2日は火曜日。その日は大学の集中講義があり(もちろん講義するほうだ)、2限目が終わって学食の行列に並びながらスマートフォンを覗き込むと、地域リーグ仲間から「山雅の松田が倒れて大変なことになっています!」とのDMが入っていた。「山雅の松田」とは言うまでもなく、当時JFLの松本山雅FCに所属していた、元日本代表の松田直樹のことである。慌ててTwitterのタイムラインを開いて、事の次第に目を剥いた。

  当時のことを思い出しながら、いくつか驚いたことがある。まずTwitter。私がアカウントを取得したのは2009年の8月で、かなり早かったように記憶している。それからわずか2年で、Twitterはサッカーファンの間でも広まり、「松田倒れる」の一報もすぐに拡散していった。そしてもうひとつが、第一報を発信したのがファンと思しき見学者だったこと。その日、山雅がトレーニングをしていた梓川ふるさと公園は、りんご畑が広がる山の中にあった。そんな場所での平日の午前、少なからぬ山雅サポがいたことにも驚かされる。

  もちろん当時は、そんなことを考える余裕もなかった。ちょうど山雅の書籍づくりをしていたこともあり(翌年に『松本山雅劇場 松田直樹がいたシーズン』としてカンゼンより上梓)、今すぐにでも松本に駆けつけたい衝動にかられたものだ。けれども、集中講義は明日も明後日もある。午後の講義の冒頭で、松田直樹という素晴らしいフットボーラーのことについて語り、その彼が生死の境にいることを学生には伝えた。そして2日後の8月4日、松田直樹は死去。享年34歳だった。

  今週は、10年前のあの夏の悲劇について、10年という節目に思うところを記したい。実は本稿を書くにあたり、故人の呼称をどうするか、いささか悩んでしまった。本来ならば「松田さん」が適切なのだろうが、これだとあまりにもよそよそしい。だからといって「マツ」とか「直樹」と呼ぶほど親しかったわけでもない。硬派なノンフィクション風に文中敬称略の「松田」も考えたが、本稿には馴染まないと判断した。結果、最もしっくりくるフルネームの「松田直樹」を基本とすることにしたい。

  そんな松田直樹には2回、単独インタビューをさせていただいたことがある。いずれも横浜F・マリノス時代のことだ。最初は2006年の5月。ちょうどワールドカップ・ドイツ大会に臨む代表メンバーが発表された直後で、選から漏れた当人に話を聞くという、今から思えばヒヤヒヤものの取材現場であった。それでも松田直樹は持ち前の鷹揚さで、番記者でもない私を快く迎え、自らの思いをストレートに言語化してくれた。終わってみれば、ほとんど削る箇所がないくらい、完璧で爽快感のあるインタビューだった。 

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