宇都宮徹壱ウェブマガジン

【無料公開】チーム崩壊はロンドンから始まっていた? なでしこJAPANの敗北と再生をめぐる対談<1/2>

 7月23日の東京五輪開幕に先立ち、サッカーの競技が始まった。今週は5週あるので、過去のアーカイブの中から、なでしこJAPANに関する5年前の対談企画を無料公開とすることにしたい。ご出演いただいたのは、石井和裕さん(写真右)と上野直彦さん。おふたりとも、長年にわたり女子サッカーを応援・取材しており、石井さんはWE Love女子サッカーマガジンの主筆を務めている。

 女子サッカーといえば、今年は東京五輪の開催年であると同時に、2011年の女子ワールドカップ優勝から10周年にも当たる。これらの話題は何度も取り上げられる一方で、なぜかスルーされているのが5年前のリオデジャネイロ五輪予選敗退。2011年の快挙と2021年の挑戦を考える時、実は2016年の挫折は重要な意味を持つ。

 リオ五輪予選は16年2月29日から3月9日まで、大阪での集中開催だった。出場枠は2つ。前回のロンドン五輪で銀メダルを獲得している日本は、ホームの利もあって出場権獲得は確実視されていた。ところが蓋を開けてみると、オーストラリアと中国に敗れ、2勝1分け2敗の3位で予選敗退。佐々木則夫監督が2008年に就任して以降、右肩上がりの成長を続けていた女子代表にとって、初めて経験する大きな挫折となった。

 石井さんと上野さんに対談をお願いしたのは、リオ五輪予選敗退の直後。佐々木監督の退任は決まったものの、後任監督はまだ発表されていないタイミングで、なでしこの未来は極めて不透明な状況にあった。あらためて読み返してみると、高倉麻子監督率いる現在のなでしこを考える上で、実に示唆的な内容がふんだんに盛り込まれていることに気付かされる。1万7000字におよぶ大作だが、最後までお読みいただければ幸いである。(取材日:2016年3月16日@東京)

<1/2>目次

*それぞれの「女子サッカー原体験」

*女子ならではのサッカーの面白さ

*「やっぱりこうなってしまったか」

*習近平体制で強化された中国女子

*アメリカの強さを支える「タイトルIX

それぞれの「女子サッカー原体験」

──今日はよろしくお願いします。本題に入る前に、おふたりのそれぞれの「女子サッカー原体験」というところからお話いただきたいと思います。まずは上野さんから。

上野 はい。僕は兵庫県の出身なんですけど、小学校3年から学校のサッカースクールに通っていたのですが、そこで神戸FCの試合へ行った時に、何人かのお姉さんがプレーしていたんですね。

──上野さんは私と同世代ですから、今から40年前くらいの話ですかね。私の小学校時代にも女子がいましたが、まだ「女子サッカー」という概念はなかったように記憶します。

上野 兵庫では女子のサッカーは、決して珍しいものではなかったんですね。けっこう「女子サッカー先進県」で、いろいろ選手を輩出しているんです。で、女子サッカーと深く関わるきっかけとなったのが89年。西が丘で女子リーグの開幕戦があって、ベレーザと清水FCというカードだったと記憶しています。お客さんもかなり入っていて、めちゃくちゃおもしろかったんですよ。記憶が正しければ、選手宣誓が野田朱美、ファーストゴールが高倉麻子、ファーストアシストが手塚貴子という。

石井 すごいな、それ(笑)。

──当時はまだ、L・リーグっていう名称でもなかったですよね?

上野 Lは94年からじゃないですかね。当時は日本女子リーグ(JLSL)でした。神戸でもけっこう公式戦は観ていました。TASAKI(ペルーレ)はもっとあとですけど、神戸FCの試合はけっこうやっていましたね。

──女子のワールドカップを初めて観戦したのは?

上野 99年のアメリカ大会ですね。でも当時は「ワールドカップ」という名称でなかったような。

石井 女子世界選手権でしたね。

上野 そうです。でも、当時はまだいち観客でした。試合も日本以外のカードでしたし。

──いずれにせよ黎明期の頃からご覧になって、それが気付いたら取材する立場になったってわけですね。石井さんはいかがでしょうか?

石井 僕の女子サッカー原体験は、松山の小学校の3年か4年くらいに、近所の病院の看護婦チームと試合をしたことですね。よっぽど珍しかったのか、NHKの全国ニュースで取り上げられたんですけど、今でもあの失点はオフサイドだったと信じています(笑)。

──スタジアム観戦に関してはいかがですか?

石井 94年の日本女子代表対オーストラリア女子代表だと思うんですよね。たしか国立で、男子の試合の前座で行われたんです。それが最初でした。

──なるほど。のちほど話題に出てくる澤穂希が代表デビューしたのは、93年の12月6日の対フィリピン戦ですから、その直後ということになりますね。上野さんがなでしこを取材するようになったのはいつごろですか?

上野 2003年に行われた、アテネ五輪予選のメキシコとのプレーオフですかね。

石井 国立に1万人以上が入った試合でしたね。

上野 うっすらと思い出したんですけど、確かTASAKIペルーレの関連で、親会社の田崎真珠の広報誌での取材でしたね。当時はまだ、そういう媒体でないと、あまり女子が取り上げられることはなかったです。

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