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【無料公開】蹴球本序評『女の答えはピッチにある 女子サッカーが私に教えてくれたこと』キム・ホンビ著、小山内園子訳

 素敵なカバーイラストが印象的なサッカー小説が届いた。帯には《韓国で「真のフェミ本」と話題沸騰! 抱腹絶倒の体験記。》とある。版元は、社会派フットボールノンフィクションを数多く世に送り出してきた、白水社。とはいえ、これまでのラインナップとは、かなり趣が異なるようだ。さっそくプロローグの「私たちにはなぜ、サッカーをするチャンスがなかったんだろう?」から引用しよう。

「年をとると好みが変わるっていうのはホントらしいわ。あたし、もともと運動なんて大っキライだったのにさ」

 わがチーム不動のフルバックが不意にもらした一言に、みな我先にと同意を示した。好みが変わったなんてレベルじゃなくて遺伝子が突然変異したんじゃないの、と、根拠のない病理的な疑いまで飛び出す。体育の時間といえば保健室に行くことばかり考えていた人間が、黙っていても汗がタラタラ流れ落ちる八月の炎天下に自分から這い出してきて、あっちこっち駆けずり回ってボールを蹴っているんだから、そりゃそうかも。(中略)

 同じことは私にも起きた。一人の人間の、その人生のどまんなかに一つの運動が入り込む。それは想像以上に大きな出来事だった。日々のタイムスケジュールが変わり、手に取る服や靴が変わり、身体の姿勢が変わり、心の姿勢が変わり、体と向き合う心の姿勢が変わる。サッカー経験が積まれていくほどに、身体と心にある種の感覚が目覚めていくのを感じたし、サッカーが楽しくてしょうがないという気分も味わった。(後略)

 作者は韓国で今、最も注目される30代の女性エッセイスト。「キム・ホンビ」とはペンネームで、本名も経歴も素顔も一切が非公開となっている。会社員の傍らサッカーのプレーに目覚め、そのプロセスをSNS上で公開したところ編集者の目にとまり、本作で作家デビューすることとなった。勘のいい読者はお気づきだろうが、ペンネームは『ぼくのプレミア・ライフ』で知られる、ニック・ホーンビィに由来している。

 非常に多面的な小説である。韓国の現代社会のリアル。女性の社会的・文化的なポジションのリアル。かの国のアマチュアプレーヤー(しかも女子)のリアル。そしてサポーター文化のリアル。ただし、重苦しさを感じることは微塵もなく、帯にある「抱腹絶倒」という表現に偽りがないことを痛感する。日韓サッカーの文化や環境の違い、あるいは意外な類似性が確認できるのも面白い。

 作品としてのクオリティが高いことは言うまでもない。個人的に注目したのは、この作品が「小説」で、しかも「女性」によって書かれていることだ。これまでにもサッカー小説というものを何冊か読んできたが、『ぼくのプレミア・ライフ』以降でのめり込んだのは、今のところこの作品のみ。そこに、ホーンビィをリスペクトして止まない女性作家による作品が、隣国から出現した。

 奇しくも、帯には《いつまでもホンビさんの話を聞いていたかった。》と、津村記久子さんからの推薦文が寄せられている。女性作家によるサッカー小説というのは、単に目新しさがあるだけでなく、海外展開の可能性も考えると意外とブルーオーシャンなのかもしれない。大阪で津村さんにインタビューしたのは2年前の夏であったが、久々に「この人に話を聞きたい!」と思える書き手と出会うことができた。定価2000円+税。

【引き続き読みたい度】☆☆☆☆☆

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