宇都宮徹壱ウェブマガジン

広瀬一郎の功績を「スポーツマンシップ」から考える 【座談会】佐山一郎✕中村聡宏✕広瀬みなみ<1/2>

 日本におけるスポーツビジネスの第一人者で、2002年ワールドカップ招致活動やスポーツナビ創設に尽力してきた広瀬一郎さん。2017年5月2日の突然のお別れから、早いもので3年が過ぎた。亡くなられた3日後、私はこのような追悼コラムを書いている。広瀬さんへの最後のインタビューはこちら。久々に読み返してみると、その卓見ぶりにあらためて驚かされる。

 ところで「スポーツビジネス」という側面で語られる事が多い広瀬さんだが、もうひとつ忘れてならないのが「スポーツマンシップ」の伝道師としての側面。とりわけ「グッドルーザーたれ」という教えは、彼の門下生のみならず、あの川淵三郎氏にも影響を与えていることは、最近のインタビューからもうかがい知ることができる。

 そんな折も折、このほど『スポーツマンシップバイブル』が上梓された。「川淵三郎氏推薦!」という帯が巻かれた本書を執筆したのは、日本スポーツマンシップ協会で代表理事を務める、中村聡宏さん。中村さんは広瀬さんの一番弟子というべき存在であり、以前にも当WMにご登場いただいている(参照)

 今般のコロナ禍による世界的なスポーツイベントの自粛、そして何とも後味の悪い東京五輪延期決定のプロセス。広瀬さんがご存命だったら、どんな発言をしていただろう? そんな思いを抱いた関係者も少なくないはずだ。今回は広瀬一郎という人物について、あえて「スポーツマンシップ」という観点から考察するべく、故人にゆかりのある3人の方々にZOOM上で集まっていただいた。

 まずは、本書の執筆者である中村さん。広瀬さんの同世代の友人だった佐山一郎さん。そして、長女の広瀬みなみさん(みなみさんは現在の勤務地であるシンガポールからの参加となった)。世代も関係性も異なる3つの視点から、広瀬一郎という人物が残した功績について、この機会にあらためて考察することにしたい。(収録日:2020年4月18日)

<目次>

*2002年に出版されていた『スポーツマンシップを考える』

*「広瀬一郎にスポーツマンシップはあったのか?」という疑問

*さまざまな挫折に遭っても「常にグッドルーザーであり続けた」

*もし広瀬一郎が生きていたら、東京五輪延期をどう論じたか

*スポナビができるまで「純・スポーツメディア」はなかった?

*「尊重こそがスポーツマンシップで最も重要」と語っていた理由

2002年に出版されていた『スポーツマンシップを考える』

──今日はZOOM上ではありますが、お集まりいただきありがとうございました。初対面という方もいらっしゃいますので、まずは広瀬さんとの関係性を絡めながらの自己紹介をお願いします。年功序列で(笑)佐山さんから。

佐山 佐山一郎です。初めて広瀬さんとお会いしたのは、90年代のはじめくらいだったかな。MXテレビの何かの番組でした。ちょっとおしゃれな宴会の席などで、華麗なムーンウォークを披露していたのも印象に残っています(笑)。お酒は好きなふりをしている感じでしたね。同じ「一郎」という名前だったので、Wけんじならぬ「Wイチロー」という漫才コンビを組めたらいいな、なんて時代もありました。それにしても、みなみさん、お父さんにお顔がそっくりですね。

広瀬 あまりうれしくないです(笑)。

──続いて中村さん、お願いします。

中村 中村聡宏と言います。広瀬さんとの出会いですが、僕が印刷会社に入社したばかりの2000年に、ちょうどスポーツナビの立ち上げ企画を担当したのがきっかけです。クライアントの社長と営業マンという関係でした。その頃のスポナビには、四方健太郎さんとか中村武彦さんといった同世代のインターンがいて、夕方に若者を集めて「広瀬塾」みたいなことをやっていた時に、なぜか僕も混ぜてもらっていたんです。やがてスポナビがヤフー・ジャパン傘下になった時、僕の印刷会社も民事再生の申立をしまして。

──2002年のワールドカップ終了後ですね?

中村 そうです。その時に広瀬さんから「お前の会社、潰れたんだってな?」って、嬉しそうな声で電話がかかってきて(笑)。「今度、経済産業研究所で研究員やることになって、リサーチャーを雇える予算があるから手伝わない?」ってお声がけをいただいたんですね。実は広瀬さんは2002年に『スポーツマンシップを考える』という本を、ベースボールマガジン社(以下、ベーマガ)から出版したんですけど、その印刷は僕がいた会社が請け負ったんですよ。

──(ネットを検索しながら)『スポーツマンシップを考える』は2005年に小学館から出ているようですが。

中村 それは増補・改訂版で、最初はベーマガだったんですよ。印刷会社を離れた後も、印刷在庫を預かることになりました。それで僕のほうは、広瀬さんの鞄持ちみたいな感じで、スポーツマネジメントスクール(SMS)やスポーツマンシップ普及に関するNPO法人の立ち上げをご一緒させていただきました。その間、川淵さんや岡田(武史)さんといった方々とご一緒させていただいたり、静岡県知事選のお手伝いをさせていただいたり。

──まさに広瀬さんの一番弟子であり、ずっと二人三脚だったわけですね。

中村 広瀬さんのご自宅が、僕の家から近かったこともあると思います。「いつものデニーズに集合!」みたいな連絡をよくいただきましたね。行ってみると「俺の愚痴を聞いてくれ」と。ひとしきりしゃべってから、スッキリした表情で帰っていくということが何度かありました(笑)。

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