長崎サッカーマガジン「ViSta」

超個人的コラム:2024 J1昇格プレーオフに長崎が敗れた日に思うこと~それが私の生きる道~

12月1日、長崎はJ1昇格プレーオフに敗れ、2024シーズンを終了した。

悔しいかと言われれば悔しい。哀しいかと言われれば哀しい。でも、涙が出るかと言われれば一滴も出ないし、落ち込んで仕方ないかと言われればそれ程でもない。若い頃なら「安っぽい涙は流さんぞ。俺が泣くのは昇格したときだけだ」なんて、昭和感全開の負け惜しみも言っただろうが、そんなことを言う気も起きない。それは、歳を重ねて自分の感受性が弱まったからかもしれないし、余りの完敗ぶりにまだ実感が乏しいのかもしれない。

試合が始まって少したったあたりで、仙台のスカウティングがハマっていることが十分にわかり「危ないな」と思い、その後も「マズい」と思いつつ試合を見ていたため、90分かけて敗戦を受け入れていった感じがあったからかもしれない。それほど仙台のサッカーは良かった。今季ベストのゲームと言ってもいいだろう。逆に長崎は「らしく」なかった。

だが、私は知っている。

マテウスジェズスの強烈さはあんなものではないことを。
エジガルジュニオの決定力はもっとすごいことを。
安部大晴のポテンシャルはもっと高いことを。
笠柳翼と米田隼也の突破はもっと鋭く、名倉巧を加えた左の連携が強力なことを。
増山朝陽の攻め上がりはもっと迫力があることを。
田中隼人や秋野央樹のフィードはもっとピンポイントで相手の急所をつけることを。
ヴァウドや若原智哉は4失点を許すような選手ではないことを。
マルコスギリェルメのカウンターはもっと早いことを。
長崎がもっと強いことを私は知っている。

だが、この日はほとんど、それを見せられなかった。負けたこと以上に、そこについては実に残念である。

「左サイドはリーグ終盤戦の形で良かったのではないか」
「守備に緩さがあったのではないか」
「外国籍の中にフアンマデルガドを入れるべきだったのでないか」、
「仙台の先制PKのシーンは・・」
「選手が緊張していた。もっとリーダーシップを・・」
「あそこの交代をもっと早くしていれば・・」

たら・れば、は幾らでも出てくる。だが、そうやれば勝てた”かも”という話でしかなく、結局は「負けた」という結果だけが現実である。個人的には昨年末のカリーレ氏の案件があってからのゴタゴタを見ていたので、甘いと言われようが開幕時に「戦力は十分J1昇格できるが、この状況では2024シーズンはプレーオフまで行ければ合格点」と思っていたので、静かに受け入れたいとも思う。

「今年は徹底的に準備してシーズンに入った。それでも昇格に届かなかった。足りなかったのは何?」

残酷だと思ったが、試合直後の米田隼也にそう質問した。彼は今年、チームがキャンプインする前に自費で沖縄入りして自主トレし、走りについてもフォームを改善して、ほぼほぼ1年の大半を自身とチームの強化に捧げた。

「・・・。今はまだ自分の中で整理がつかないですね」

彼はしばらく無言で考えていた。その間、こみ上げるものがあったのか少し目に涙を浮かべながらそう答えてくれた。実に素直な心情であり答えである。

そして、恐らく私も米田同様に、まだ心の中で整理がついていないのだろう。カリーレ氏の案件で「2024シーズンの昇格は難しい」と思い、その中で「自動昇格で行けるかも」というところまで来て、にも関わらず失速して「駄目か・・」と悩み、そこから再び連勝してリーグを「あと一歩」で終え、その上で3週間の準備をして「大一番」の1試合目でシーズンを終える。余りにも状況と感情の起伏が激しく、心の整理がついていないのだ。だから悔しくもあり、哀しくもあり、悔しさもなく、悲しさもない・・状態なのだろう。

しばらく、私はこの感情のままいることだろう。そうして、その内に少しずつ心の整理がついて、冷静に振り返って、このときの自分の気持ちがどういう状態だったかが理解するのだ。そして、それが理解できる頃には、きっと新チームの始動が間近に迫り、私はまた慌ただしい日を過ごしているに違いない。

そういったサッカー界の輪の中で、私は明日も生きるのだ。
勝っても、負けても、昇格できても、昇格できなくとも、嬉しくとも、哀しくとも・・。

それが私の生きる道なのである。

reported by 藤原裕久

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