長崎サッカーマガジン「ViSta」

ViStaコラム:あれから4年が過ぎた。今も生きている2人の小嶺。そのためにも伝えていきたいこと

2019年11月10日、全国高校サッカー選手権長崎県予選決勝。試合終了後、多くの報道陣が優勝した長崎総合科学大学附属高校の小嶺忠敏監督に話を聞きにいく中、私は敗れた国見高校のベンチへ一人駆け寄った。話を聞きたかった相手は小嶺栄二。国見高校のコーチである。

「ちょっとショックですね。どうしたら勝てるのか・・」

沈痛な面持ちで栄二はそう言った。当時のチームは選手集めに栄二も関わった世代で、木藤健太監督の指導のもとで着実に実力をつけていた。当時、多くの県内サッカー関係者も「国見が一番良いサッカーをしている」と評し、「今の国見なら総附にも勝てるんじゃないか」という声が挙がっていた。

それだけに力負けしたショックは大きかった。

栄二は2000年~2001年に国見高校で高校三冠(インターハイ・国体・選手権)を達成したときのメンバーで、日体大でプレー。大学卒業後は当時まだアマチュアチームだったV・ファーレン長崎でプレーした選手である。左サイドで見せる彼のドリブルと切り返しは、そりゃあすごかったものだ。そこは間違いなくJリーガーレベルだった。

現役当時から細身だった彼だが、2019年当時の彼はさらに細くなっており、立っているのも辛そうだった。当時、癌に冒されロッカールームに酸素ボンベを持ち込むほど病が進行していた。彼にはもう時間がなかったのだ。だからこそ、私は彼の話が聞きたくて敗れた国見ベンチへ駆け寄ったのだ。

栄二が亡くなったのはそれから7日後、11月17日のことだった。

それを私が知ったのはV・ファーレンの練習を取材中。知らせてくれたのは栄二の病を知り、「ベンチで指導をしたい」という彼最後の願いを支えるため国見のコーチとなっていた田上渉だった。選手権の予選が終わり家族の待つ大分に戻っていた田上は電話で開口一番、こう言った。

「栄二が死んだっす。今から俺も長崎に向かいます」

選手権の決勝戦からわずか1週間で栄二はこの世を去ったのだ。

それから4年が経った。
今年の選手権県予選決勝が再び長崎総科大附と国見になり、嫌でもあのときの記憶が甦った。この4年で国見は中島大嘉というプロ選手を送り出し、昨年には12年ぶりの選手権出場、今夏はインターハイでベスト4に進出。長崎総科大附も小嶺忠敏監督という巨星を失い、今年に入って県内常勝王者はちょっとだけ苦戦するようになった。昔より外部スタッフもずいぶんと減ったように感じる。何より、両校とも代名詞だった『丸刈り』をやめた。おかげで長崎県内で丸刈りのサッカー部を見ることがなくなったのは少しばかり寂しい。

だが、変えるべき部分は変わっても大切な中身の部分は変わっていない。長崎総科大附の球際の強さはそのままだし、試合後半序盤に交代出場した長崎総科大附の選手が試合中にもう一度交代してベンチに下がるのを見ると「長崎総科大附を率いていた頃の小嶺先生っぽいな」と思う。国見も栄二と一緒にやっていた小原GKコーチが今も指導を続け、小嶺栄二→木藤健太ラインで続くボールを保持するスタイルは健在だ。

変わらないのはプレー面やチーム面だけではない。

栄二が亡くなった年、国見の寮で幽霊が出たらしいという他愛のない噂が流れた。そのとき田上は笑いながらこう言った。

「俺は、見てないっすけど、栄二やないかと思うんですよね。本当に出るなら祓うっす。栄二でも容赦なく祓うっす」

国見の取材をしている合間に部室で校庭を芝生化したいと雑談していると「栄二の遺言だったって言い張ろうか」という話になった。スタッフは棚から栄二の写真を下ろし、机の上に置くとまた笑った。きっと、今も栄二がそこにいる感覚なのだ。

長崎総科大附も同様だ。

定方監督は今でも指導で悩むと「先生ならどうするだろう?」と考えるという。先生のやり方を思い出すことはよくあるという。今年の選手権予選の最中もスタッフに「今年の選手権予選で負けたら、総附は13年ぶりに県内で無冠になる」と話すと「先生に怒られる(笑)」と笑って返された。試合を見に小嶺先生の奥さんや娘さんも来られていたという。

小嶺忠敏監督は今もそこにいるのだ。

人が本当に死ぬのは、人から忘れられたときだと言われる。

そういう意味では栄二も小嶺先生も間違いなく生きているのだ。私はこれからも彼らがずっと生きていけるように、彼らのことを、そしてサッカーのことを書いて伝えていきたいと思う。それは彼らを見てサッカーが好きになった私にとって、唯一できそうな恩返しである。先日開催された4年ぶりの長崎総科大附と国見の選手権県決勝での対決を見て、徒然にそんなことを考えた。

reported by 藤原裕久

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