中野吉之伴フッスバルラボ

【きちルポ】フライブルクで能登の子どもたちと交流②まっすぐな子どもたちの言葉を僕ら大人は受け止めているだろうか?

▼ 能登震災の子どもたちが語った

「お母さんとおばあちゃんは亡くなってました」

輪島からパリオリンピック参加プロジェクトに参加した女の子の声がダイレクトに心に響く。

ツンさんが企画した能登被災地の子供をパリオリンピックに連れていこうプロジェクトの番外編としてフライブルクを訪問。初日はみんなでサッカーをし、二日目は市内観光からプールで思い思いに遊んだ。

そのあとで行われた能登震災報告会。20人近くの人が集まり、子どもたちの話に真摯に耳を傾けている。彼らの包み隠さないストレートな言葉を聞いていると、こぼれる涙を抑えることができない。でも僕らは目を背けてはいけない。耳を閉ざしてはいけない。全て受け止めて、自分達にできることを探していかなければならないんだ。

今回はその全容をアップしたいと思う。子どもたちの名前が出ているが、今回のプロジェクトに参加するうえで、名前出し、顔出しでインタビューに応じ、SNSでアップされることを親とともに了承している。

インタビュアーはツンさん。

そんな子供たちの言葉をぜひ最後まで読んでほしい。そして感じてほしい。

▼ 被災地の実情

―――まずこうせい。こうせいは震災のときどちらにいたんでしたっけ?

「1月1日、うちの母の実家に帰省していて、あそこで地震が起きたことをテレビで知って。1月3日に飛行機で帰る予定だったんですけど、飛行機も新幹線もちょっと止まってしまったので、帰れなくなってしまったという状況でした」

―――2次避難という形になるんですけど、学校はどうされたんですか?

「学校はですね、1月の中旬に、祖母の家は神奈川にあるんですけど、そこの学校の方が協力してくれて、自習室で勉強してました。最初に30人もいるクラスにいったら面食らうんじゃないかって」

―――でもここ僕にはすごい衝撃的で。2ヶ月間、隣ではみんながわちゃわちゃって体育やったりするのに、2ヶ月間自習室に通うって、ちょっとイメージできないんですよね。なんでそんなことが起こったんだろうって?

「一度うちの兄と父がお母さんも1回、石川の珠洲にいって、支援物資とか学校の状況とかを、写真をとってきてくれたりしたので、それをもとに発表会をする機会がありました」

―――そしたら急にみんな友達になったんだよね?

「そうですね」

―――いや、一緒に勉強しようってなって、入れてもらったんだよね?自習室通いになってどのくらいの時だった?

「大体2ヶ月ちょいですかね?」

―――最後の方はみんなと一緒に勉強できた?

「はい、最後の2日間だけ一緒にクラスで勉強出来ました」

―――2か月自習室でわずか2日って…。いろいろ事情があるのはわかりますが、でももっとやりようはあったんじゃないかって思いますね。珠洲のみんなに会いたいって気持ちにはやっぱりなった?

「なりましたね。2ヶ月も会えなかったら、やっぱり。不安もあるし。1月1日のあの地震のときは、逃げてるときにどういう状況かとかもメッセージがたくさんきてたんですけど。地震が起きてからも全然もうメッセージが来ないので、連絡がないので不安がありました」

―――お母さんは病院のお仕事してるしお父さんは海の仕事してるから、君らに付き添えないから、兄弟2人でおばあちゃんのところにいたんだもんね。お母さんに会いたいなとか思わなかった?

「いやでも、あいたいという気持ちはあったけど。毎日メッセージをしてくれるので、不安はあんまりなかったです」

―――ありがとうございます。

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