中野吉之伴フッスバルラボ

【対談】数多くのプロ選手をスカウトした二宮博さんにインタビュー(後編)宇佐美貴史はどうしたらドイツでブレイクできたかを考察

▼ 数多くのプロ選手をスカウトした二宮博さんにインタビュー(後編)

宇佐美貴史、堂安律、鎌田大地などなど、数多くの逸材をガンバ大阪スカウト時代に見出してきた二宮博さん。今から10年以上前、知人に当時ガンバ大坂育成アカデミーの本部長だった二宮さんを紹介してもらい、それからしばらくは一時帰国の度にお会いして、いろいろな話を伺う機会をいただいたことがあった。

少し僕の昔話を。

2012年、日本本帰国を一度決意して、日本での就職先を探していた僕は、ガンバ大阪育成のスクールコーチ募集という話を聞いたので、そこに応募してみることにした。

採用試験を受けて、条件提示を聞いて、そこでもう一度妻と相談した。正直、条件は思っていたよりも厳しいものだった。日本で指導者をやるというのはそういうことなのだろうという知識はあったので、驚きがあったというわけではない。

ただ、自分が置かれている状況と自分が持ち続けていた思いとこれから自分たち家族の将来像を照らし合わせてじっくり考える必要は間違いなくあった。

スクールコーチとしてやっていくことは収入的に考えて、妻もフルで仕事をする必要が出てくる。知り合いもいない初めての土地へ引っ越し、長男は小学校に入り、次男は幼稚園。僕は週6でグラウンドに立ち、妻もフル稼働。

何か違う。

そういう生活を求めて僕はドイツで頑張ってきたのだろうか?
ドイツに今ある生活を捨ててまで日本へ帰ってやるべきことなのだろうか?
日本のプロクラブに入ることが、僕が求め続けていたスタートやゴールなのだろうか?

そうではなかった。ドイツにある地域に密着したサッカー文化のなかでサッカーと生きていくことの大切さを僕はずっと学び続けていたんだ。それを還元できる場所ややり方は、必ずしもプロクラブで指導者をするということにはならない。

プロクラブでプロ指導者になるためにドイツに渡ったわけではなかった。

それにドイツにはぼくのところでトレーニングしたいという子どもたちがいた。その子たちから離れて、日本へ帰らなければならないのだろうか。そうではない。そこに固執する必要はないのだ。自分に適した仕事があり、家族もそこで自分達の生活を構築していける環境が見いだせるなら、新しいチャレンジが始まる時がいつか来るのかもしれない。

でもそれは、そうでなければならないわけではない。自分の道は自分で作る。これまでがそうだったように、これからもそうなのだ。

そう考えたら心がスッと軽くなったのをよく覚えている。

そして、だから、僕らはドイツへ残ることを決意し、そして二宮さんに断りの連絡を入れさせてもらった。

ドイツでやっていくと決めた以上、仕事をさらに開拓していくことが必要となり、だから執筆活動を精力的に行うようになり、だから日本一時帰国時には講演会や講習会を企画したりと活動の幅を拡げていき、それが今の自分のライフワークへとつながっている。

あの時は僕にとって大きなターニングポイントの一つだった。

二宮さんと話をするのはその時以来。今回、とても学びになる話がたくさん聞けたし、僕にとってはあの頃の僕の思いとまた向き合うことができる貴重な機会となった。こうした人の縁をこれからも大事にしていきたいと改めて思った次第だ。

さて、僕の昔話が長くなってしまったが、ここからは二宮さんとのインタビュー後編を楽しんでいただきたい。

「宇佐美貴史はなぜドイツでブレイクできなかったのか?」「いまもし宇佐美がジュニアユースに上がってくるとしたらどんな育成がふさわしいのだろうか?」「鎌田大地と堂安律の現地評価は?」など興味深いテーマでいっぱいだ。

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