サッカーの基本的なメカニズムを知ることができる環境があるかないかが、日本とヨーロッパの一番大きな違い
▼なぜ日本ではサッカーの幹となる部分が伝わっていかないのか。
先月行った池上正さんとの対談でも触れた大事なテーマだ。「ヨーロッパでは指導者が持つサッカー観がある程度統一されている」という話を聞いたら、日本の指導者、およびサッカー関係者は「すごい。どうやっているんだろう?」と考えてしまうだろう。でも、おそらくそういうことではない。それは「どうにかしよう」としてなったものではないからだ。
サッカーとはとてもシンプルなルール上で、誰にでもできるスポーツ。根本的なルールを知り、基本的な技術を用いてプレーするだけでも十分に楽しい。でも、シンプルなものほど奥が深い。深く知れば知るほど、新しい発見があるし、そこから別の可能性を見出すことができたら、より深い喜びを得ることができる。そして、確かにヨーロッパでは様々な分野で研究が進み、学問としてのサッカーも確立してきている。現場でも理論的な考察がなされ、互いのディスカッションから次の段階へ進む。そのスピードはとても速いし、どんどん進化する。
そういった情報は、日本にも流れてくる。
危機感を持ち、「もっと学ばなければ」と様々な理論に興味を示す指導者たちがいる。そうした姿勢自体はすばらしいものだと思う。好奇心、向上心の表れだからだ。そういう視点も持たず、いつまでも間違った理論、間違った取り組み方で間違った指導をする人も残念ながらどこにでも存在する。「何かを変えたい」と思い、真摯に取り組む。それは素敵なことだ。
ただ、だからといって「何だ。サッカーというのは専門家ではないと楽しめないものなのか」とか、「小難しいことばかりを考えなければならないから、ちょっと近寄りがたい感じがするな」という風潮が生まれてしまったらもったいない。面倒くさく難しいことを論拠できる人でなければサッカーは楽しめないというわけではないし、そんな必要があるわけでない。サッカーとは一部のコアなサポーターだけのものではないし、そうする必要もない。サッカー検定を作って、何点以上の人以外はスタジアムに来てはいけないというルールを作ったりする必要もない。
そうではなく、サッカーに携わるすべての人が自分たちの関わるサッカーを通して自然に本質的なものを吸収できる環境にすることが理想的だし、私たちはそうしなければならないと思うのだ。
そのためには、いまサッカーに携わる人たちが、「サッカーとは、そもそもどういうスポーツか」を知ることが大事になってくる。「サッカー」を伝える人が、「サッカー」を知る努力をする。そして、それを伝承していくことが求められる。特に育成現場にとって重要なのは「試合に勝った、負けた」という結果以上のことだ。
なぜ日本サッカーが世界のサッカーと隔たりが生まれてしまうのか。
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