中野吉之伴フッスバルラボ

今シーズンの挑戦がスタート!  2クラブで異なる年代を指導する

ドイツで15年以上サッカー指導者として、またジャーナリストとして活動する中野吉之伴。18年2月まで指導していた「SGアウゲン・バイラータール」を解任され、新たな指導先をどこにしようかと考えていた矢先、白羽の矢を向けてきたのは息子が所属する「SVホッホドルフ」だった。さらに古巣フライブルガーFCからもオファーがある。

最終的に、今シーズンは2つのクラブで異なるカテゴリーの指導を行うことを決めた。この「指導者・中野吉之伴の挑戦」は自身を通じて、子どもたちの成長をリアルに描くドキュメンタリー企画だ。日本のサッカー関係者に、ドイツで繰り広げられている「指導者と選手の格闘」をぜひ届けたい。

指導者・文 中野吉之伴/【twitter】@kichinosuken

▼ 指導者・中野吉之伴の挑戦 第七回

解任後救われたのは息子が所属するチームからの誘いだった。

SGアウゲン・バイラータールU15監督を辞めることになり、その後一か月ほどしてから息子二人がプレーする「SVホッホドルフ」という小さなクラブでコーチをすることになった。具体的には、次男がプレーするU8のチームだ。

我が子の所属するチームで監督をするのは、思っていた以上に楽しい。

仲間と楽しそうにサッカーをプレーしている場にいられるのは本当に幸せだ。もちろん時に気が立つことも、気を配りすぎることもある。どれだけ指導者歴が長く持っていたとしても、我が子のいるチームの指導は初心者だからそれも仕方がない。失敗もする。たくさんする。そうしたら、いっぱい反省する。子どもたちに謝ることもある。子どもたちに謝られることもある。そして、もっと良くできるようにアイディアを練る。

こうした環境でやるのもいいなと思っていた。だから、来シーズンのことはそこまで深く考えないようにしていた。週2回、次男のいるチームでコーチをして、週末はゆっくり長男の試合観戦に通うのもいいかなとか。いや待てよ、時間があるんだったら、現役復帰しようかなとか。頭の中でいろんな想像をしていた。どれも悪くないな、と。

そうしているうち、3月の下旬くらいに、かつて監督をしていたフライブルガーFCの育成部長から連絡があった。「来シーズンからうちで監督をやってもらえないだろうか?」という打診だった。

フライブルクにおいては、ブンデスリーガクラブのSCフライブルクに次ぐ位置につける古豪クラブだ。

1980年代まではブンデスリーガの2部に所属し、1906年には当時のドイツ王者に輝いたこともある。現代表監督ヨアヒム・レーフ、SCフライブルク監督クリスティアン・シュトライヒ、ドイツサッカー協会・指導者育成インストラクター元主任のフランク・ボルムートはこのクラブの出身だ。

ただ、そうした経歴を誇りに思うあまり、自分たちの立ち位置を見誤らせてきた過去を持つ。1980年代後半に3部リーグに降格すると、そこからの下降線に歯止めをかけることができなくなってしまった。2000年には経営難からスタジアムを売却。現在、そこはSCフライブルクの育成アカデミーとして使用されている。その後8年間近く、持ちグラウンドのないジプシークラブとなってしまった。

トップチームは降格を続け、一時は8部にまで落ち込んでいた。土台もなければ、ビジョンも見られない。育成年代では、各世代の上部リーグでプレーしていても、そうした選手は気づくと他のクラブへと移籍をしてしまう。指導者はそれぞれ自分のチームが勝つことだけを考え、クラブのコンセプトも、指導者間の意見交換も少ない。私が以前所属していた2009〜2011シーズンはまだそうした混乱の時代だったし、そのために首脳陣とは何度も育成の在り方で喧嘩をした。そして、私も最終的に自分からクラブを去る決断をした。

それが、まさに当時の教え子だったルカ・モルドルから連絡があった。

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