「football fukuoka」中倉一志

【中倉’Voice】大晦日に札幌のホテルにて。いつかまた仲間とともに感動と喜びを心から分かち合える日が来ることを信じて

新千歳空港の飛行機が欠航になって冬の札幌に閉じ込められて迎える年越し。札幌らしくセイコーマートで手に入れた「北のどん兵衛」と大ぶりの手握りのおにぎりで1年を振り返っている。正直に言えば、あの時と同じ気持ちになるとは想像もしていなかった。

1999年からサラリーマンとライターの「二足の草鞋」を履いて取材をしていた5年半。ライターを専業にしてアビスパを追いかけ続けてきた20年と6カ月。そのほとんどの期間を出口が見えないトンネルの中で過ごしてきた。雁ノ巣に足を運んでくる仲間や、スタジアムに集う仲間、そしてアビスパという言葉で繋がっている仲間がいる限り、いつかはきっとトンネルの出口が見えるはずと思って前を向いてきた。

2013年に発覚した経営危機の際には「クラブ創設以来18年間にわたって沈殿してきた澱のようなものが溢れた」と表現したことを思い出すが、アパマンショップホールディングス社(現APAMAN)が経営に参画してから潮目が変わり、2020年から記録と記憶に残る戦いを演じJ1で戦い続けているチームの姿を見ながら、まだまだ課題はあるにせよ、それは今までのものとは別次元のもの。アビスパは変わったと感じていた。

だから、あの感動のシーズンから1年後にこんな状況を迎えるなどとは思いもよらなかった。今思えば、昨年辺りから違和感のようなものを感じることがあり、今年の6月辺りからはその回数も増えていたが、それに注意を払うことをしなかった自分が情けなく、そして申し訳ない気持ちが消えない。今の状況は、あの時と同じように少しずつ沈殿していた澱のようなものが、次期監督として金明輝監督を招聘したことがきっかけになって溢れだしたもの。あの時はクラブを存続させようとサポーターの想いが一つになっていたことを考えれば、今回の方が事態は深刻だと言えるかもしれない。

いまアビスパに関わる多くの人たちが、アビスパを愛する気持ちとクラブの態度の間に齟齬を感じながら、どのようにアビスパと向き合うかを整理している。まだ迷っている人もいる。その結果は一つではないが、どの結論もアビスパを愛するがゆえに心を痛めながら下した苦渋の決断。結果はそれぞれ違っても、それぞれの決断に至る想いは尊重されるべきものだろう。

個人的なことを言えば、来年で68歳の誕生日を迎える身としては、今すぐこの仕事を辞めることは考えていないが、だからと言って、あと何十年も続けられないことも分かっている。どんな方法でアビスパのことを多くの人に伝えられるのかということを考えながらも、どうやって自分の仕事を締めるのかということも考えなければならない。けれど、今までも、そしてこれからも、自分には愚直にアビスパを見て、そこで起こっていることを1人でも多くの人に伝えることしかできない。

そもそも安田生命をやめてフリーのライターになろうと決断したのは、サラリーマンとの二足の草鞋という中途半端な私を受け入れてくれたクラブ職員、メディアの各記者、サポーター、そして生まれた町である福岡に恩返しをしたいと思ったから。それができているかどうかは別にして(汗)、これだけは絶対に譲るわけにはいかない。

全試合を取材しようと決めてアウェイ取材を始めた頃、ある出来事があった。アウェイのスタジアムの喫煙所で会ったサポーターに「アウェイに来たら中倉さんが必ずいてくれる」と言って握手を求められたのだ。正直驚いた。そしてこの出来事が今も自分がアウェイ取材をする原動力になっている。こんな自分でも誰かの力になれるのなら物理的に動けなくなるまで全試合取材は続けると決めた。

今回の件でアビスパと距離を置くことを決めた仲間がいる。様々な想いを抱えながらスタジアムに行くことを決めた仲間もいる。その大切な仲間たちが、またいつの日が胸を張ってスタジアムに足を運び、アビスパを「おらが町のチーム」として誇りに思い、みんなで心の底から感動を分かち合える日が来るまで、アビスパを追いかけ続ける。それも26年前に決めたこと。その想いは変わらない。

[中倉一志=文・写真]

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ