石井紘人のFootball Referee Journal

【佐藤隆治取材記】タフに

~前編~

 

200935日。JFA(日本サッカー協会)ハウスにて、今年から新たにプロフェッショナルレフェリー(PR:旧称SRJFAと契約するプロの審判)として契約する審判の記者発表が行われた。

 

「これはあくまでもスタートだと思っています」

 

引き締まった表情で語る佐藤隆治からは、1年前の初々しさは消え去っていた。

レフェリーカレッジ1期生という肩書きを持つ佐藤だが、最初から審判を目指していたわけではない。指導者の道を考えており、筑波大学在学中から小学生のコーチを務めていた。

チームを運営するうえで、審判のライセンスは義務付けられている。

そのため四級審判員資格取得の講習会は、仕方なくというどんよりした空気が蔓延し、審判資格に対する気概は感じられない。

佐藤も例外ではなく「チーム率いるためには必要ですから。渋々行きました」と当時を振り返る。

佐藤だけでなく、吉田寿光をはじめ、PRたちも入り方は同じである。指導者を目指す道程で審判の資格を取得している。そして、審判として活動をしている間に、「資格だから、とっておこうかな」という軽い気持ちで三級審判員となる。

さらに佐藤でいえば、筑波大学を卒業し、愛知県の学校に就職した後に「二級を受けてみないか?」と声をかけられたのがきっかけとなり、二級審判員を取得したように、いつのまにかレールを歩いている審判員がほとんどだ。

 

その先にある一級審判員へのチャレンジは、転機が訪れるかどうかになる。

 

2002年。FIFAワールドカップ2002日韓大会の主審を務めた上川徹(現:JFA審判委員長)の講演会が愛知県で行われた。

その講演に足を運んだ佐藤は、

「何に惹かれたかは僕もわからないんです。ただ、『これだ』と思った」

と初めて審判というのを意識しはじめた。

 

翌年、愛知県の審判委員会から、レフェリーカレッジがスタートする話をされ、入学をすぐに決意する。サッカーダイジェストで「レフェリーカレッジ一期生募集」という記事を見ていたため、突拍子もない話ではなく、待っていましたのタイミングだったのだ。

 

ここから、人生は変わり始める。金・土・日の三日間はカレッジに通わなければいけないため、勤めていた学校を退職しなければいけない。

当然、両親は不安がっていたようだが、迷いはなかった。

愛知県サッカー協会のはからいもあり、事務の手伝いで席を設けてもらい、平日は協会の仕事。週末は新幹線で東京にという生活が始まった。

もちろん、旅費や東京での宿泊日は実費だ。

 

「今考えるとよくやったなと思います」と笑いながら、「凄く充実していた。PRになりたいとかじゃなくて、一つずつ階段を上るのに必死だった」という。

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