【佐藤隆治取材記】タフに
~前編~
2009年3月5日。JFA(日本サッカー協会)ハウスにて、今年から新たにプロフェッショナルレフェリー(PR:旧称SR:JFAと契約するプロの審判)として契約する審判の記者発表が行われた。
「これはあくまでもスタートだと思っています」
引き締まった表情で語る佐藤隆治からは、1年前の初々しさは消え去っていた。
レフェリーカレッジ1期生という肩書きを持つ佐藤だが、最初から審判を目指していたわけではない。指導者の道を考えており、筑波大学在学中から小学生のコーチを務めていた。
チームを運営するうえで、審判のライセンスは義務付けられている。
そのため四級審判員資格取得の講習会は、仕方なくというどんよりした空気が蔓延し、審判資格に対する気概は感じられない。
佐藤も例外ではなく「チーム率いるためには必要ですから。渋々行きました」と当時を振り返る。
佐藤だけでなく、吉田寿光をはじめ、PRたちも入り方は同じである。指導者を目指す道程で審判の資格を取得している。そして、審判として活動をしている間に、「資格だから、とっておこうかな」という軽い気持ちで三級審判員となる。
さらに佐藤でいえば、筑波大学を卒業し、愛知県の学校に就職した後に「二級を受けてみないか?」と声をかけられたのがきっかけとなり、二級審判員を取得したように、いつのまにかレールを歩いている審判員がほとんどだ。
その先にある一級審判員へのチャレンジは、転機が訪れるかどうかになる。
2002年。FIFAワールドカップ2002日韓大会の主審を務めた上川徹(現:JFA審判委員長)の講演会が愛知県で行われた。
その講演に足を運んだ佐藤は、
「何に惹かれたかは僕もわからないんです。ただ、『これだ』と思った」
と初めて審判というのを意識しはじめた。
翌年、愛知県の審判委員会から、レフェリーカレッジがスタートする話をされ、入学をすぐに決意する。サッカーダイジェストで「レフェリーカレッジ一期生募集」という記事を見ていたため、突拍子もない話ではなく、待っていましたのタイミングだったのだ。
ここから、人生は変わり始める。金・土・日の三日間はカレッジに通わなければいけないため、勤めていた学校を退職しなければいけない。
当然、両親は不安がっていたようだが、迷いはなかった。
愛知県サッカー協会のはからいもあり、事務の手伝いで席を設けてもらい、平日は協会の仕事。週末は新幹線で東京にという生活が始まった。
もちろん、旅費や東京での宿泊日は実費だ。
「今考えるとよくやったなと思います」と笑いながら、「凄く充実していた。PRになりたいとかじゃなくて、一つずつ階段を上るのに必死だった」という。
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